#10
「ほんで今回なんで海に行こうってなったんだっけ?」――旅館にチェックインして、一息入れた後。
西脇の問いに答えたのは、琴ではなく瑞穂だ。
「だからぁ、おきつのオッサンの陰謀を止めるんだって出がけにも説明されたじゃん!」
えらく口調が砕けているが今、この部屋にいるのは西脇と瑞穂の二人だけ。
おかみさんや先輩の前では敬語を使う瑞穂も素に戻ろうというものだ。
「あー、なんかグダグダ前置きが長いんで、半分流し聞きしてたわ」
気まずげに視線を逸らす親友に、瑞穂が容赦ない追い打ちをかける。
「ワッキーって何でかいっつも、おかみさんに辛辣だよね。なんかあったの?」
「そりゃあ、そうよ。だって恋敵だもん」
「恋敵?」
首を傾げる瑞穂へ向き直ると、西脇はドンとテーブルを叩いた。
「島先輩を取り合う壮絶な恋のライバルなの!」
西脇が叫んだ直後、琴が部屋へ戻ってくるもんだから、瑞穂は気が気ではない。自分からふった話題だが、無理やり締めに入った。
「そ、そうなんだ~大変だね~頑張って!」
いきなり棒読みの態度には西脇も面食らったが、彼女の背後に琴を見つけて大人しくなる。
「ふふ、おしゃべりが弾んでいましたね。一体なんのお話を?」
微笑む琴には、瑞穂が愛想よく受け答えた。
「えぇっと、海で何をして遊ぼうかって計画を立ててましたぁ」
そんな話はトイレに行っている間、全然聞こえてこなかった。
なんてことは、当然言わないのが大人の取るべき態度だ。
まったく。
せっかく事前説明したのに聞いていなかったとは、西脇にも困ったものだ。
「おきつのオッサ、もとい、興宮サン、でしたっけ?の部屋には、島さんと真木さんも一緒なんですよね。後で遊びに行ってみます?」
内心溜息をついていた琴は、瑞穂の誘いに頷いてみせる。
「えぇ、そうしましょう。真木くんも喜ぶでしょう」
部屋は男女で分けざるを得なかった。
西脇を島と同室にしたら何をやらかすか判ったものではないし、道徳的配慮もある。
第一、大部屋で寝るなど自分が嫌だ。
琴とてまだ花盛り、女としての見栄や誇りがある。
島の前では粗相をしたくない。
「へー、オキノミヤって、こう書くんすかー。へんな苗字っすよねぇ」
しばらく大人しかった西脇は、一枚の紙面を眺めている。
フロントでもらった部屋割りだ。
男性の部屋は、女性の部屋と離れた場所に取った――
というよりも本来、興宮が島と二人で泊まるために取った部屋に真木が混ざり込んだ形になる。
わざわざ部屋割りを渡すとは、若い男女が多いせいかフロントも気を利かせたつもりらしい。
「へんな苗字って言ったらニシワキだって珍しいし。私のオリだってそうだし」
「けど変じゃないっしょ」
「えー?檻って今まで一人も出会った事ないし?充分変だよォ」
その若い女性二人は、変な苗字で競い合っている。
上司が一緒だというのに、すっかり敬語を忘れているが、二人だけでの会話に堅い事は言いっこなしだ。
「まぁ珍しくはあるけどさ。そいや久遠先輩って、最初苗字が久遠かと思ったよね」
「へぇ~、そうなんだ。私はフルネームで名乗られたから、最初から真木が苗字って知ってたよ」
「そうなの?厨房じゃいきなり久遠だよ、ヨロ☆って言われて、ハァ?って感じ」
西脇の身も蓋もない思い出話に瑞穂はクスクスと笑い、続きを促した。
「島さんとかは、どうだったの?そいやシマって苗字も結構珍しくない?」
「ん~、でもカッコイイよね島。先輩はフツーに島 大志って名乗ってた」
「真面目~。おかみさんの大蔵って苗字も格好いいですよね」
いきなり瑞穂に話題を振られ、琴は慌てて頷いた。
こちらの存在など忘れているのかと思っていたが、覚えていたのか。
「そ、そうですか?ありがとう」
「旅館の名前として、しっくりくる苗字ですよね~。いいなー格好いい苗字の人」
羨む瑞穂に「檻だって他の人と滅多に被らない分カッコイイと思うっすよ?」と、西脇。
それを言ったら西脇だって興宮だって、近辺に被る苗字の人はいない。
不思議なものだと、改めて琴は考える。
こんなふうに自分や他人の苗字について考える自体、したことがなかったと驚きながら。
「まぁ一番かっこいいのは島って苗字スけど!島 阿子!グッドネームっしょ」
琴の密やかな驚きは、西脇の戯言で瞬く間に四散する。
「えー、なんか収まり悪くない?」と、ひやかす瑞穂に琴も同意だ。
ただし収まりが悪い悪くないの問題ではなく、島を渡さないという意味で。
だが、次の「それだったらまだ、島 瑞穂のほうが、しっくりくる感じ」には西脇同様、驚かされた。
「ハァ~~ン?まさかと思うけどミズチン、島先輩のこと狙ってんすか!?」
こめかみをビキビキ引きつらせる親友に、あくまでも瑞穂の態度は冷静だ。
「まさかぁ。例えばで言ってみただけじゃん」
かと思えば、くるりと振り向き琴を上目遣いに見上げた。
「島 琴も、ちょっと微妙ですね~。言いづらいっていうか」
「あーそれ!それ、私も思った!めちゃ言いづらい!!」
これには琴も二の句が出てこない。
「やっぱ大蔵のほうが、しっくりくる!おかみさん、再婚しても苗字変えちゃ駄目ですからね」
恐らく瑞穂に悪気はないのだろう。
珍しい苗字から始まった話題だ。
語感遊びに行きついたとしても不自然ではない。
だが――
島と再婚するのであれば、大蔵ではなく島に籍入れしたい。
昔の苗字を引きずるのは、昔の旦那の思い出を引きずるも同然だ。
島にも失礼ではないか。
無論、前の旦那、美代司を忘れたことなど一日たりとてない。
しかし、いつまでも亡者との思い出に囚われているのも、どうかと思う。
美代司とは十二年も前に死に別れた。
そろそろ、次の人生へ踏み出してもよかろう。
あの世の美代司も琴を祝福してくれるに違いない。
きっとそうだ。彼は優しい人であったから。