Dagoo

ダ・グー外伝  秘境の村~犬神家~

夏が過ぎれば、秋が来る。
山の木々が紅葉しても、村の風景が変わることはない。
ここだけ時間が止まったかのようだ――
この村の中だけ。
外の世界へ出ていきたいという願望は、日増しに剛志の内で膨らんでゆく。
彼は具体的に策を案じるようになった。

「鎮守の森までは出られるんだ。問題は、森をどのように歩いて反対側へ抜け出るかだな」
死狼の部屋にて、剛志が地図を広げる。
手製の地図だ。
ここ数日、自ら歩き回って森の地図を作り上げた。
森の外へは一歩も出ていない。
一人で出ていく勇気は、さしもの剛志にもなかったし、何より一人で出ていっても意味がない。
犬神 死狼を連れて、村を出る。
彼の目的は、そこにあった。
死狼は病弱だから、今のままでいたら、二十歳を迎えられないかもしれない。
この村の医療が遅れているせいだ。
今時、呪術なんて流行らない。死狼には現代医学が必要だ。
婆様お手製の薬草を煎じたもので、何が治るというのか。
この村にいたのでは、まともな薬すら手に入らない。
本は密輸出来ても、さすがに医薬品は見つかってしまうだろう。
手の届く範囲にありながら、手に入れられないもどかしさに剛志は歯がみした。
やはり、まともな治療を受けさせるには村を出るしかない。
剛志は死狼に生きてほしかった。自分が死ぬまで傍らに寄り添っていてほしい。
思いきって告白したのだって、その為だ。
初めてキスした時、死狼は驚いたような、悲しそうな表情を見せたけれど。
翌日には、いつもどおりの挨拶をしてくれたし、抱き寄せても嫌がる素振りを見せたりしない。
そればかりか身をすり寄せてくる日もあったりで、死狼のほうでも自分を好いているのだと剛志は確信した。
体力がないから、激しい性行為は禁物だ。
しかし村を出て、死狼が元気になってくれさえすれば。
死狼のことは初めて出会った日から、ずっと好きだ。
初めて祖母に教えられた時、こんなに美しい少年がいるのだろうかと目を疑った。
見るからに儚く弱々しげで、触れるとぽきりと折れてしまいそうなぐらい虚弱なのに、芯は真っ直ぐ貫かれている。
周りの子供達とは、明らかに違った。
いつも落ち着いており、滅多なことでは感情を乱さない。
馬鹿馬鹿しい冗談を一切言わないし、つまらないことで笑い転げたりもしない。
物事を分析する能力に長けている。剛志の話す、馬鹿馬鹿しい子供の空想話でさえも。
精神面だけで見ると、まるで大人のようであった。
だが死狼の達観が大人なのではなく一種の諦めであると剛志が気づくのに、そう時間はかからなかった。
村の長の息子で、体が弱い。
おいぬ様の恐ろしさを、誰よりも、よく知っている。
村を出て行くなど、考えたこともなかっただろう。
説得を重ねても、やはり決心がつきかねるのか良い返事を貰えていない。
たかが十六、七の少年に村を捨てる覚悟を強いるのは、残酷かもしれない。
だが短くして命が尽きるよりは、マシではないのか。寿命が延びる可能性があるなら、そちらに賭けたい。
剛志にはある積極性が、死狼には欠けていた。
そのことが、二人の命運を大きく分ける結果を呼んだ。


最初に気づいたのは、誰だったのか。
お手伝いの婆やか、乳母か、それとも両親だったのか。
否――
誰でもなかったのだと、今なら死狼にも判る。
当時は、そこまで頭が回らなかった。
ただひたすら、剛志に手を引かれて森の中を逃げまどっていた。


秋が終わって冬に差し掛かった、ある日のこと。
剛志は、ついに決心した。
村を出る覚悟を。
死狼には、まだ決心がつきかねていたのだが、剛志の決意に押されるようにして村を出た。
鎮守の森へ足を踏み入れ、彼が囁く。
「この森を出てしまえば、二度と村には戻れない。だが大丈夫だ、外の世界では俺が死狼を守る」
彼の言うことには何の根拠もなかったが、死狼には力強い言葉であった。
幼少より死狼のたった一人の友人であった存在は、今や恋人の地位に登り詰め、彼の世界の全てを収めている。
彼がいなくなったら、僕は生きていけないのではないか。
その想いが強くて、今まで村を出る決心がつかなかった。
今だって決心がついたわけじゃない。剛志が行くと言ってきかないから、仕方なくついてきただけだ。
今日の剛志は、いつもより聞き分けが悪くて、死狼は内心驚いた。
だが、ずっと彼の好奇心を押さえつけてきたのだ。いつかは爆発しても仕方のない話であった。
森を抜けるルートが頭の中に入っていると言われた。
剛志の後をついていけば、外の世界へ出られるらしい。
森の奥へ入るだけでも初めてだというのに、さらに外の世界へ出るとなると、否応なしに死狼の気分も高揚してくる。
――そこに、油断があったのかもしれない。
彼らは忘れていた。
おいぬ様の存在を。
いや、忘れていたわけじゃない。
甘く見ていたのだ。
おいぬ様の移動範囲と、感知力を。
気がついた時には凄まじい殺気が背中を追ってきていて、剛志が叫んだ。
「逃げるぞ、死狼!この森さえ抜けてしまえば、奴はついてこられない!!」
奴?と聞き返すまでもなかった。
おいぬ様だ。おいぬ様の気配が追いかけてきている。
どれだけ走っても、道なき道を踏み越えて、藪の間をくぐり抜けても振り切れない。
木の根に躓いて転びかける死狼を、剛志が抱き留める。
そのまま死狼を抱き上げ、再び剛志が走り出した。
「降ろして、降ろして下さい……!荷物になるぐらいなら、置いていかれたほうがマシですッ」
言っても無駄だとは思いながら、死狼が叫ぶ。
案の定、息を乱した剛志は頑固に首を真横に振ると「そいつは無理な相談だ!」と叫び返してきた。
彼の望みは、死狼と共に村を出ること。
置いていけと言われて、出来るわけがない。たとえ本人の望みでも。
しかし、いくら剛志が健康体と言っても、追われる身の逃亡では分が悪い。
おまけに足下は走りにくい森の中だ。
みるみるうちに剛志の走るスピードは落ち、追いかけてくる気配の勢いが増してくる。
死狼は振り向いた。そして、見た。
おいぬ様が牙をかち鳴らして、剛志に飛びかからんとするさまを。
思わず、叫んでいた。
「おいぬ様、僕の邪魔をするな!あっちへ行けぇっ!!」
びくりっと黒い影が怯んだように見えたのも、一瞬で。
どこからか、父の声が響いてくる。
『たわけ!犬神筋の人間が、村を捨てて出ていこうなどと考えるものではない!』
死狼だけに聞こえる幻聴か。
否、剛志にも声は聞こえたようで、彼はギリッと歯がみする。
「親なら……村より子の幸せを願えってんだ、畜生め!」
捨てるんじゃない。体が丈夫になれば、戻ってくるつもりだった。
だが、父に言っても無駄であろう。村を出ること自体が禁じられているのでは。
森は静寂だ。鳥の囀りや風の音も聞こえない。
聞こえるのは剛志の荒い息づかいと、足音ぐらいで。
父の足音が聞こえないのは、遠距離でおいぬ様を操っているせいだ。父は、森に来ていない。
なら、或いは何とかなるかもしれない。
僕だって犬神筋の人間だ。
死狼は背後を睨みつけ、黒い影に念じた。

――おいぬ様。僕を追うのではなく、村に戻って犬神 健造へ襲いかかれ!

だが。
ごうっと風を切って黒い影が追いつくと、剛志めがけて牙を突き立てる。
死狼は放り出されて、枯れ葉の上で尻餅をつく。痛がっている場合ではなかった。
「剛志さんっ!」
手を伸ばした死狼の前で、剛志が喉元から赤い噴水を一筋、ぴゅーっと噴き上げる。
泣きそうな目が、死狼を捉えた。
「あ……っ」と小さく呟いたのを最後に、彼の体は前のめりに倒れ、動かなくなった。
どくどくと赤い血だまりが池を作り、剛志の体を赤く染めあげてゆく。
「剛志さん!剛志さんっ!!」
カサカサと落ち葉を踏む音が近づくのにも構わず、死狼は剛志の体を揺さぶり続けた。
いくら揺さぶろうとも、彼が目を覚ますことは永遠になかった。
誰かの手が自分の肩にかけられて、「さぁ、戻りましょう坊ちゃん」と声をかけられても。
死狼は譫言のように剛志の名を呼び続け、両脇から引きずられるようにして村へ連れ帰らされた。

あれから、季節が何度も流れ。
十代のひ弱な少年だった死狼も、二十歳を迎えた。
相変わらず、この村は日本の地図の何処にも記されておらず、村人は外の世界へ出ることも許されない。
だが、それでいいと死狼は考える。
出たところで、何があろう?
もう、あの人もいない。
一緒に村を出ようと言ってくれた、あの人も……