育の後日談
約束の日が来た。だいぶ日にちが経ってしまったが、坂下に道場を案内するがてらスケートボードを教えてもらうといった約束を、文化祭が始まる前にしたんだ。
先に道場へ案内する。
白河道場は幼い頃に俺が通っていた場所で、流派は一応極真流を名乗っているが、その実態は自己流空手というマイペースな道場だ。
本家にバレたら大変なことになるんじゃないかと思うんだが、何度忠告しても大丈夫大丈夫で済まされてきて、今に至る。
まぁ、成り立ちはいい加減でも指導はしっかりしている。なにより師範が初心者に優しい。
「へー、これが道場かー!でっけぇ建物を想像してたんだけど、意外とショベェな!」
この道場へ初めて来る者が必ず抱く感想を、坂下も持ったようだ。
そうだ、俺も初めて来た時は同じことを思った。
白河道場は小学校の体育館よりも小さく、いっそ畳を敷いて茶室にしたほうがいいんじゃないかと思うぐらいの狭さだ。
だが、このスペースでも空手の稽古は充分にできる。大人も通っている事実が証明になるはずだ。
「はーい、しょぼい道場へお越しいただき、本日は、ありがとうございまーす!」
今日は、ただの見学で終わらない。坂下には道着での本格的な体験入学をやってもらう。
今、身も蓋もない発言を繰り出したのが、ここの道場主で師範も兼ねている白河 良二さんだ。
いつも笑顔を絶やさず、誰が相手でも態度を変えたりしない。子供から大人まで平等に接する、できた人物だ。
「オス!今日はご指導お願いすんぜ、先生!」
いつもは主将に反発しかしない坂下が、それなりに敬意を示している。
「はい、元気いいですねー。坂下さんは空手初心者とのお話を小野山くんから聞いていますが、フルコンタクトという言葉は聞いたことありますか?フルコンタクトー」
「おう、知ってんぜ!顔面殴っていいやつだろ?」
「うぅーん、惜しい!正確にはグローブやヘルメットを着用しないで、素手で相手が倒れるまで殴る蹴るする本格的な格闘ルールです。たーだーしー、うちは極真流を踏んだフルコンタクトですけどもー、稽古は寸止めで教えていまーす」
「え!?なんでだっ」
またしても幼き日の俺と同じ反応を坂下がしている。
俺も昔は、フルコンタクトとは目突き金的何でもありの格闘技だと思っていた。
いや実際、極真流の祖である大山 倍達の考案では顔面攻撃もありの本格的な死合い――であったはずだ。
それが大会などの兼ね合いで、いつの間にか顔面だけは攻撃禁止になったという話を、あとで知った。
白河師範は首のあたりを掻きながら、どこか苦笑いで答える。
「まっ、一言でいうと危ないから……ですかねェ?それに大会じゃ大抵において寸止めルールですし、特に学生の大会で寸止めなしのフルコンタクト制なんて聞いたことないですよ?世間のルールが寸止め主流なら、そっちを学んだほうが絶対いい。ですよねー?」
これも俺が過去に教わった通りの回答だ。
もう何十回も、この説明をしているんだろう。すらすらと淀みなく話す姿は手慣れたものだ。
「うちはねぇ、人を倒す方法を教えているんじゃないんですよー。空手を通して、そうですねぇ、たとえば大会優勝といった目標めざして頑張ったり、仲間と腕を磨きあって切磋琢磨する楽しさを覚えたり、いわゆる心技体ですか、そちらを重視しています」
坂下はウンウンと頷き、ぐっと拳を固める。
「なるほど、よく言われる努力、友情、勝利……ってやつか!」
「いい反応ですねぇー。それそれ、それを念頭において始めましょうかー」
どこでよく言われているのかは不明だが、師範も納得しているし、横槍は突っ込まないでおくか。
師範は坂下と向かい合って立ち、しばらく黙っていたが、ややあって笑顔で「やぁー、思った以上に、これは、なかなか」と呟く。
「ん?何が、なかなかなんでぇ。俺が思った以上チビだったってか?」と、坂下。
師範は軽く首を振り、しかし「いや、そのとおりです。今日は軽く基本をなぞっておきましょうか」と、本人の指摘を認めた。
「あ、いいよ、いいよ。基本は空手部でも教わったし」と簡単に断っているが、坂下、部活で教えた基本は本当に基礎中の基礎だぞ。
しかも俺なりに師範の教えを解釈した自己流のやり方だから、あまり正道とは言い難い。
本格的にやりたいんだったら、やはり、きちんと師範の資格を持つ者に教わったほうがいいに決まっている。
「ほう、部活で」と師範に横目で見られたので、素直に頷く。
「なるほど、それでも連れてきたってことは、小野山くんは此処でも坂下さんと一緒に稽古をしたいんですねー?」
もう一度頷き、「初心を忘れず稽古できる場所は、ここしかありませんから」と答えておいた。
けして社交辞令じゃない。初心者から上級者までが一緒になって練習できる道場を、ここ以外に知らない。
部活で空手をやるようになってからも、ここへは時折足を運んでいたが、いつでも門下生は俺に稽古をつけてくれた。
「へぇー……そんなに居心地いいんだ、この道場」と感心する坂下へ師範が「いや、はは、それほどでも」と頭をかきながら照れるのを眺めつつ、俺は二人を促した。
「そろそろ始めませんか」
「うん、そうしようか。それじゃ坂下さんには、まず、基本の型を教えますねー」
「型?って盆踊りみたいなやつなんだろ?愛川先輩が言ってたぜ、審査員のセンスで勝ち負けが決まる八百長試合だって」
「ほう、盆踊りとは言いえて妙な例えです。センスのある先輩ですねー。そうそう、ダンスみたいな軽いノリでやれば楽しいかもしれませんねぇ」
毒を含んだ冗談に笑顔で返す師範は、昔、空手は格闘技を名乗る以上、本来は殺し合いであるはずだと力説する幼い頃の俺に、やはり笑顔で「そうやって殺し合っていったら、最終的には空手人口がゼロになっちゃいませんかー?真の格闘を目指すのは構いません。けれど、人は孤独に耐えられる生き物ではないんです。小野山くんは、どうですか?一人ぼっちでも続けられますかー?空手を」と逆に問いかけてきた在りし日を思い出させる。
一人は嫌だ。それは、高校の部活で嫌と言うほど思い知った。
「八百長と言われれば、そうかもしれませんがー、しかし感性の基準なんて人それぞれですからねー。要は、お笑いグランプリと一緒ですよ」
「なるほど!わかりやすい例えサンキューだぜ。師範ってガッコの先生にもなれんじゃねーの?」
「いや、はは、それほどでも?さぁ、初心者にも覚えやすい初級から始めてみましょうか。まず私がやりますので、同じように動いてみて下さーい」
坂下のおだてに頬を赤くして照れながら、師範は彼女を板の上へ誘う。
じっと眺めていたら、他の門下生に声をかけられた。
「よっ、久しぶり」
背の高い、この男性は道場に古くからいる大人で名を高津 沖政。
幼い頃は何かとちょっかいをかけてきて鬱陶しい人だなと思っていたんだが、中学に上がったあたりで俺と組手をしてくれるようになり、本当は親切な人なんだと知った。
「なに?久しぶりに顔出したと思ったらカノジョ連れ?隅に置けないじゃん」
ただ、詮索好きの冷やかし好きなのは昔も今も変わらない。
また妙な噂を流されてはたまらないし、俺は極力能面を繕って答えた。
「同じ学校の友人です。空手を本格的にやりたいとの希望で」
「お前とイチャイチャ組手したいってか?ヒューヒュー♪おあついねぇっ」とウザ絡みしてくる高津さんを、他の門下生が「高津ゥー、僻むなよ。ごめんね、小野山くん。こいつ、君が来なくて、ずっと寂しがっていてさぁ」と冷やかして、高津さんが「うっ、うるせぇな!俺と対等に戦えるのが、こいつっきゃいねーのが悪いんだろうが」と逆ギレするまでが、大体いつもの流れだ。
「ねねね、この後ヒマ?ヒマなら、お友達も一緒にカラオケいこ?」
悪いんだが、この後は別の用事がある。坂下にスケートボードを教えてもらうという重要な用事が。
俺は黙って首を振り、高津さんが「お前ら不真面目門下生と違って小野山がカラオケなんざぁーいくわけねーだろッ。この後も別んとこで修行するんだろ?皆まで言うな、俺には、ちゃあぁぁんと判っている!」と斜め上方向に勘違いするのを聞き流しながら、一通り基本の型を教わって、ぎこちない動きで真似する坂下を見守った。
時計の針が十二時を過ぎた頃、「そろそろ終わりにしましょうかー。坂下さん、本日はお疲れ様でしたー」との一言で解放された坂下へ近寄ると、満面の笑顔で俺を見上げて「意外と面白ェな、型ってやつもよ!」と好感高めな反応がきて、ひとまず安堵する。
お試し体験が型だけで終わってしまって、つまらないと思ったんじゃないかと心配だったんだ。
「この道場、なんか雰囲気がいいよな……アットホームって感じで」と、坂下が呟く。
「ここで基本固めしたのが、お前の強さの秘訣だってんなら、俺も通ってみねぇとな!」
何が理由であれ、やる気になってくれたんなら大いに結構だ。今後を考えると、こちらも期待で胸が高鳴ってくる。
「よっしゃ、ちと遅くなったけど昼飯なんにする?マックか?それともモス?お前の好きなとこ優先したるぜ」との提案に首を振り、「お前の好きなところでいい」としながら、俺は坂下の「なんだよ〜。たまには、お前の好きなトコに入ろうぜ?それとも、ないのか?好きな食べモンがよぉ」といった文句を聞きながら、彼女が歩くままにマクドナルドへ入っていった。