ノビスビルクへ寄港する漁船の船底で、何度もかじかんだ両手を組み合わせる。
この世の果てかと思う極寒の地から、彼は一人で脱走してきた。
あのような場所……アジニアで生まれた彼は、初めて見た。
全てが氷に覆われて、そこだけが世界から切り取られたような感覚を受けた。
父を置き去りにしてしまったのが悔やまれる。だが、父も覚悟の上であろう。
なんせ彼に脱出を促した者こそが、父であったのだから。
ノビスビルクへ到着したら、一刻も早くユニオンを見つけて、父救出の応援を頼むしかない。
彼らとは一応顔見知りだ。
なにより正義と自由の旗のもとに集う彼らなら、けして父を見捨てまい。
両手のしもやけに息をあてながら彼――川口 真琴は脳裏にユニオンリーダー、草薙 勇馬の顔を思い浮かべた。
クライヴに誘われて、達朗は水浴びスポットへ足を踏み入れる。
「わぁ……」
貴族領育ちの達朗が思わず歓声をあげてしまうほど緑に囲まれており、草むらの中央にポツンと小さな池がある。
明らかに誰かの手で掘った、不自然極まる池だ。
中には何も泳いでおらず、野外にありながら底まで見えるほどクリアな水が張ってある。
周辺には木々の他に色とりどりの花も咲き誇っていて、ここを作った人の自然に対する執念を感じる。
どこを歩いても腐敗物を踏みつけるスラム区域内に、このような場所がある事自体が奇跡のようにも思えた。
否、どこにも良い景色が見当たらないからこそ、この場を作ったのであろう。
きょろきょろ見渡す達朗の背後でクライヴが笑う。
「いい場所だろ。最近見つけたんだ、ここ」
外歩きの多いクライヴですら最近ここを知ったという事実に、達朗は驚愕を覚える。
彼に教えられる以前に教えてくれた住民もいないしで、彼以外のスラム住民は綺麗な景色に心を和ませる感性を捨て去ってしまったんだろうか。
あまりにも荒んだ生活を送り続けたせいで。
それに、この水。
誰かが管理していなければ、このように澄み通った状態を維持できない。
クライヴが管理しているとも思えない。
そんなマメな真似ができるなら、水浴びだって此処で頻繁にしているはず。
腕を組んでアレコレ考え込んでいると、背後でバサッと物の落ちる音がして、達朗は振り返る。
「え……えっ」
「何驚いてんだ。水浴びするっつったろ」
達朗が驚いたのは、なにもクライヴが全裸になっていたからじゃない。
彼の身体、片半分を覆う火傷の痕に驚いた。
いつもはバンダナで隠れていた顔半分にも酷いケロイドが広がっており、今の御時世、火傷痕なんて治そうと思えば治せるのにと達朗は一瞬考えるも、そういや此処はスラム領だった。
貴族領では治せても、スラムじゃ無理だ。医者がいない。
件の火事に巻き込まれたのは古賀だけかと思いきや、クライヴもだったのか。
もしかしたら古賀を助けるために、火災現場へ飛び込んだのかもしれない。
じっと見つめてくる達朗を見つめ返して、クライヴがボソッと呟く。
「……気持ち悪ィって思ってんのか?お前も」
「へっ!?」
思ってもみない指摘に素っ頓狂な奇声をあげる達朗から視線を外し、なおも彼はボソボソと小声で呟いた。
「これも、先生との思い出だ。あの日を俺は絶対、忘れない……」
「あ、いや、えぇと、その火傷痕のことなら、全然気持ち悪いとか思ってないから!身体の半分を火傷するぐらい、すごい火災だったんだなーって驚いちゃっただけで」
達朗は慌てて言い繕う。
驚きすぎてポカーンとしてしまったけれど、気持ち悪いなんて言葉は脳裏に一片たりとも浮かんでこなかった。
火事なら貴族領に住んでいたって無縁ではないし、他人の火傷を見るのは、これが初めてではない。
傷の古さや赤黒く変化した皮膚からも、炎の規模が伺い知れる。気持ち悪いよりは気の毒と言ったほうが正しい。
そう尋ねるってことは、きっと今まで火傷の件で、何人もの無遠慮な言葉を投げかけられたんだろう。
ここの住民に他人への気遣いなんてものが、あるとも思えない。
「その……古賀さんのことは、ご愁傷さまっていうか……」
今頃になってお悔やみの言葉を並べ立てる達朗を遮るかの如く、クライヴが火傷痕の詳細を伝えてくる。
なんと例の火災が起きた時、彼も古賀と同じ部屋にいたというではないか。
放火されたのは確実だ。逃げる背中を窓の外に見た。
煙と炎にまかれる中、古賀はクライヴを逃がすために身を盾にした。
崩れ落ちてきた屋根の下敷きになった古賀に逃げろと何度も急かされて、泣く泣く脱出したのだそうだ。
クライヴだけ死ななかったのが不幸中の幸いだったかどうかは、達朗には何とも言えない。
ただ、最愛の人を失くした後の人生を思うと、胸が締めつけられる。
長らく虚無の世界が広がっていたのではなかろうか、心の中に。
初めて出会った時、どこか浮世離れした印象をクライヴに抱いたが、古賀との別れが彼をそう見せていたのかもしれない。
などと憐れんでいたら、がっしと肩を掴まれて、達朗は動揺した目をクライヴへ向ける。
「お前も脱げよ」
「え、あっ、えっ?」
「それとも、服着たまま入るか?水に」
そうだった。ここへは水浴びに来たのであった。
自分が入る気は更々なかったのだが、ここまで来て断るのも変な奴だと思われてしまう。
外で素っ裸になるのは貴族育ちとして、かなりの抵抗がある。
しかし既に一人、素っ裸な奴が近くにいるのだし、恥をかくなら二人揃っての安心感があるといえなくもない。
脱いだ服を、きちんと畳んでから脚を水に浸ける。
すぅっとした冷たさが脚を伝わり、一気に汗が引いていくような感覚を受けた。
座り込んだら肩の辺りまで水位があがってきて、全身がまんべんなく冷やされる。
いつも生ぬるい温度で保たれている支部内の風呂とは、段違いの気持ちよさだ。
「んあー、ひゃっこい……」
「だろ」と隣へ並んだクライヴが笑う。
隣に並ばれると悪臭公害が酷い事この上ないのだが、悲しい想い出を聞いた直後で鼻を摘むのも思いやりに欠けている。
ここは我慢だ、我慢。
「ここなら足を伸ばしても怒られねぇし」
「誰にも気持ち悪がられない、ってか?」
言葉は思うよりも早く口を飛び出して、言ってから慌てる達朗をよそに、クライヴは笑って相槌を打つ。
「あぁ。人の目を気にしなくてもいいしな」と言うが、達朗の視線は気にならないんだろうか。
のびのび足を伸ばして、クライヴは完全にリラックスしている。
「……なら、毎日ここで浴びちゃおっか?」
悪臭回避案として言うだけ言ってみれば、すぐに返事をよこしてきた。
「いいぜ。お前がつきあってくれるんなら」
貴族領と違って、スラムは日陰になるような場所が殆どない。
無論、建物内にも冷房は存在せず、何処にいても汗だくの背中ビショビショである。
平均気温40℃のアジニアで、冷房なしはキッツイ。
スラムに入りたての頃、達朗は外気の蒸し暑さに負けて何度も倒れそうになった。
生粋のスラム住民は暑さなど屁でもないようで、その辺りにも育ちの違いを見せつけられた。
監視付きの生暖かい風呂に入るぐらいなら、この池で水浴びするのは良い案かもしれない。
――なんて閃きは、クライヴにぎゅっと抱きつかれた瞬間、達朗の脳裏から四散した。
「え、ちょちょちょ、距離近っ!」
「達朗……俺、俺」
迫りくる顔にキスされるんじゃ!?との予感を抱くも、俺の後に続いたのは達朗の予想した、好きだのといった愛の囁きではなく。
「俺は、お前に生きててほしいんだ……早く逃げろ、スラムから出ていってくれ」
抱きつかれた格好のまま耳元で囁かれた言葉が、何度も達朗の脳内で反芻される。
「へ?」
「沙流が怪しい動きをしてんだ。あれはきっと、お前を捕まえる策に違いねぇ」
「え、ちょっ、ちょっとその話、詳しく?」
「そこから先は、俺が話そう」
――寸前まで気配一つ感じなかった。
尤も、クライヴの行動で動揺していた達朗には周辺を伺う余裕すらなかっただろう。
ハッとなって声の方向を見やると、上から下まで全身黒づくめの怪しい人物、いや、あれが観月ではなかろうか?
支部では見つけることもかなわなかった相手が、初めて眼の前に姿を現した。
水辺まで近づいた黒づくめが、再び言葉を発する。
「沙流が動く。近日中に、お前を公開裁判で処刑するつもりだ。脱出は早いほうがいい、俺が手を貸そう」
「こ、公開裁判……?」
ポカンとする達朗に重ねて言う。
「そうだ。罪状はスパイ容疑、ただし証拠も証言も必要とせぬ一方的な死刑宣告に過ぎんがな。こいつは偶発を装った災害じゃない、幹部公認の殺人だ。殺されたくなければ一刻も早く、この場を去れ」
疑われていると知っていても、そういった手段を取るとは予想だにしていなかった。
公認ってことは、沙流の直属上司であるナサーシャにも疑われていたのか。
疑われていただけじゃない。部下に私刑の許可を与えるほど、人の命を軽々しく見ていた。
いつ話しかけても愛想よく答えてくれた彼女の裏の顔を見てしまったようで、ゾッとする。
改めて育ちの差を思い知らされる。
気に入らない、スパイかもしれない、その程度の理由で殺人が許されてしまう治安の悪さにも。
「な……んで、どうして、あんたが俺を……?」
呆然としながらも当然の疑問が達朗の口をついて出る。
クライヴが手を貸す理由は、達朗と仲良くしたかったが為の友情であろう。
だが、観月が赤の他人な達朗へ手を貸す理由は何だ。
何処か遠くを見やるような視線を空に向けて、観月が答えた。
「なに、俺を知る者が侵入してきたのでな……俺も近日中に此処を発つ予定なのだ、そこのクライヴをつれて」
「…………は?」
観月を見てからクライヴへ視線を移すと、泣きそうな、それでいて嬉しそうでもある複雑な表情とかちあう。
何でどうしてと理由を問う前に、本人が話し始めた。
「お前と観月が出ていくってんなら、俺もついていく。ここに残る理由なんざねぇし、守る手は一つでも多いほうがいい、だろ」
言われてみれば、そのとおりだ。
クライヴがクヴェラに居残る理由など、これっぽちもない。
達朗と観月以外に親しい相手もいなさそうだし、支部内での仕事を真面目にやっていたわけでもない。
不意にハッと思い立って達朗は「あんたを知る者?」との疑問を口にしたのだが、観月には「気にするな」と流されてしまい、彼も誰かに出生を探られては困る立場にあるようだ。
クヴェラにスパイを放つ組織というと、達朗にはバルファないしアスラーダしか思いつかない。
もしアスラーダのスパイに嗅ぎつけられて困るというんなら、やはり観月は軍の脱走者ということになろう。
達朗も同じ立場だ。末端兵だったとはいえ、軍の諜報員とは極力遭遇したくない。
「え、と……その、ここを出た後は、どこへ行く予定なんだ?」
ひとまず別の疑問を口にすると、観月が答えをよこす。
「一般領へ抜けた後は、旅客船に紛れて出港する。向かう先はヨーロピアだ」
ヨーロピアといえばバルファの総本山があると、達朗をスラムへ送り込んだ同志が言っていた記憶だ。
「……え?じゃあ、もしかして、あんたも」
「そういうことだ」と頷き、観月は踵を返す。
一言「出発は明後日だ、遅れるなよ同志」と言い残して、音もなく去っていった――
-つづく-
