PM7:00――
一人のサラリーマンが街頭を歩いている。
帰宅ラッシュが始まろうという時刻を、背広なのに手ぶらで歩いていた。
「リストラ、か……」
寂しいようでいて、どこかさばさばした口調で呟いている。
定年まであと20年近くはあった。
そこまで持つ自信もあった。
だが、会社はいとも簡単に彼の首を切ってしまったのだ。
男には自宅のローンが残っていた。
娘もまだ幼く、妻もいる。
小銭程度の退職金だけでは暮らしてゆけまい。
男は今年で35歳。
今から再就職を考えるには、少しばかり厳しい年齢だ。
無事に再就職できたとしても、これから先、あの高い税金の地区で暮らしていけるだけの金が稼げるだろうか。
――どこか遠くに行っちまいたいなぁ。
ふと、眼下を見ると暗くて深い渦を巻いた川が流れていた。
男は何も考えず、その暗くて深い渦の中に――
「ただいまー!ねぇ聞いて、今日うちのクラスに転校してきた子が」
学校から帰宅後、嬉しそうに報告する真奈美の声は母の悲痛な叫びでかき消された。
「真奈美ちゃん、パパが!パパが!」
「パパが?どうしたの?」
きょとんとした真奈美が聞き返すと、母は両手で真奈美の肩を抱きかかえる。
鼻をすすりあげながら、呻くように囁いた。
「パパが、いなくなっちゃったの……どうしよう」
泣きじゃくる母から聞いたところによると、こうだ。
昨日から今朝にかけて待っていたのに父は帰ってこなかったらしい。
心配になって会社に電話をかけてみると、昨日クビを言い渡されたそうだ。
クビになっていたこともショックだが、今は父の行方のほうが心配だ。
捜索願いを警察に出そうかと思っていた矢先、近所の人から報告を受けた。
それによると、会社近くの川――
立会川の橋のたもとに、父の物らしき服と靴が脱ぎ捨てられていたという。
……父は川に飛び込んでしまったのだろうか?
警察の捜索では未だ死体はあがっていないという。
しかし、自殺したというのなら靴はまだ判る。だが何故服まで?
服は上着のみならず下着まであったという。つまり頭からつま先まで一式だ。
警察もこれには頭を悩ませているらしい。
とにかく真奈美に判ったのは、父が失踪していなくなってしまった事、であった。
嬉しい気持ちは一瞬にしてどこかへ消え去ってしまった。
――まだ小学生なのにな。無責任だよ、パパ。
真奈美はぷぅっと頬を膨らませてみる。が、つらいのはママだって同じなのだ。
これから先、母は真奈美を生活させるために働かなければならないのだろう。
母はまだ泣いている。
お嬢様育ちであると、昔、聞いた覚えがあった。
――ママの代わりに勤め口、捜さないといけないかなぁ。
小学生のくせに そんなことを考えた時であった。
母が口を開いた。
まだ鼻をすすりあげていたが、もう涙は流れていない。
「ママ、頑張るからね。真奈美ちゃんを卒業させてあげるから。今まで通りにおいしい物、食べられるようにしてあげるから」
母もやはり同じ事を考えていたようだ。
感動した真奈美は、「大丈夫!ママが働けなくなっても、あたしがちゃんと働いてあげるよ!」といって母を励ましたのだった……
翌日の学校で、真奈美は塞ぎ込んでいた。
ご近所内での噂が巡り、学校でもその噂話で持ちきりだったからだ。
人の気持ちも考えないクラスメイト達はこぞって話を聞きたがる。
皆の頭の中では、もう真奈美の父は帰らぬ人扱いになっているようだ。
――そんなことないもん、死んでないもん。
真奈美はそう信じていたかった。
例え立会川から父の死体があがったとしても、父が死ぬなんて考えたくもない。
ふと顔を上げると、転校生と目があった。
昨日転校してきたばかりの生徒である。
名はなんと言ったか――そうそう、立川 克也。
パパと同じ名前だったから親近感も沸いたのだが、今の真奈美にはそれすら苦痛に感じられた。
ところが、その転校生が目があった瞬間に話しかけてきたもんだから真奈美は驚いた。
彼は「元気だしなよ」とだけ言った。
お父さんはどうのこうの等とは一切言わなかった。
真奈美はほんのちょっとだけ、彼の笑顔に救われた気がした。
父がいなくなってから数ヶ月が過ぎた。
転校生は誰と仲良くするでもなく、かといって輪の中から外れるでもなく、クラスの皆とつかず離れずの距離をもってつきあっている。
その中でも自分にだけは優しく接しているような雰囲気が、真奈美には感じられた。
自意識過剰だろうか?
だが間違いなく意図的に、立川克也は真奈美に優しくしてくれているような気がするのだ。
笑顔が皆に向けて放たれるものよりも柔らかい。
言葉の一つ一つが真奈美を気遣っているようにも感じられる。
彼はどことなく父と印象が似ていた。
暢気でどこか頼りないが明るくて、それでいていざというときは頼りになって。
――父のことを思い浮かべると涙が出そうになる。
あれからまだ何の連絡もこない。警察からも、父本人からもだ。
母は必死で勤め先を捜しているが、30になってからの就職は難しいようだ。
……家のことを考えるのはよそう。
真奈美は軽く首を振ると、立川との会話に集中した。
彼とは今、他愛ない雑談で盛り上がっていたところだったのだ。
もちろん二人だけで話しているわけではない。他の皆も一緒にワイワイやっている。
なので当然誰かが真奈美の父の失踪事件についても触れてくるわけだが、立川はそれをさらりとかわして「ところでさ」と別の話題に切り替えてしまう。
だから、真奈美の彼に対する好感度はグングンと急上昇していった。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
立川 克也が引っ越すという噂を真奈美が耳にしたのは、彼が引っ越してきてから一年後の事だった。
父が失踪してからも1年になる。
その頃には真奈美の母もスーパーに就職していたし、父の話題が食卓に上ることも少なくなっていた。
警察からは未だに何の連絡もないが、母はもう諦めているようであった。
家にはいつの間にか父の位牌が飾られている。
真奈美は断固反対したのだが、母が無理矢理飾った物だ。
忘れたいのだろう、父の存在を。
彼に捨てられたという、つらい記憶を。
夫婦仲は悪くないように見えたけど、子供には判らない何かがあったのかもしれない。
そう考えると無理に位牌を壊す気にもならず、真奈美はそっとしておくことに決めた。
真奈美自身はまだ父のことを諦めていない。
きっと、どこかで生きていると信じている。
だが、それよりも今は父より立川の事で頭がいっぱいであった。
せっかく仲良くなったのに一年でお別れなんて寂しすぎる。
しかも噂によると、彼は今日引っ越すと言うではないか。
彼と真奈美とは、既にファーストネームで呼び合うぐらいの親密さを誇っていた。
何故か初対面時から真奈美に親切な克也に、真奈美もついつい気を許してしまい、二人は一気に仲良くなっていったのである。
だが、その克也は今日中に引っ越してしまうという。
何が悲しいって、真奈美はそれを人づてに聞いたのが一番悲しかった。
何故、克也は直接自分に言ってくれなかったんだろうか。
一番仲がいい友人、いや恋人と言ってしまっても差し支えないであろう自分に。
だから思いをぶちまけるため、彼を放課後呼びだした。
皆の前でぶちまけるのは強気の真奈美とてためらうところだが、二人きりなら言える。
何で言ってくれなかったの?
という真奈美のストレートな問いかけに、克也はしばし間をおいた後に応えた。
「二度目だからな、姿消すの。真奈美をまた悲しませたくなかったんだ」
何が二度目だというのだろうか。
もしかして克也は転校ばかりを繰り返してきた小学生なのだろうか。
以前の学校でも同じことがあったから、だから真奈美には言わなかった――?
色々考えていると、さらに克也は言う。
「お母さんと元気でな」
一年つきあってきて、初めて真奈美の家族のことを口にした。
いきなり母の話を出されたことにもビックリして、真奈美は思わず叫んでしまった。
「お母さんって……お母さんと克也は違うじゃない!」
そうじゃない、と自分でも思い直して言い直す。
「お母さんとは仲良くやってるよ……でも、克也とはもう仲良くできないじゃない」
しゃくりあげる真奈美を穏やかな顔で見つめていた克也は再度呟いた。
「また泣かせちまったな。ホント、駄目な奴だよ……オレは」
困ったような笑顔を浮かべて頭を掻く。
あっと真奈美は気がついた。その仕草、父によく似ていると。
そう言えば先ほどから何かが引っかかっているのだが……
――また?
また泣かせた、とはいつのことを言っているのだろう。
克也が真奈美を泣かせたことなど、この一年、思い起こして一度もなかった。
彼は真奈美の父については一言も話題を振ってこなかったし、
真奈美の身勝手なワガママにも文句言わずにつきあってくれた。
不満も喧嘩も真奈美が覚えている限りではなかったはずだ。
なのに、また、と彼は言う。
「オレさ」
克也が話し出したので、真奈美は自身の考えをストップさせる。
克也は空を眺めたまま言った。
「オレさ、今度行くところは遠いんだ。たぶん、もう真奈美とは会えないと思う。でも楽しかった。お前がそんな風に…男相手に笑うトコなんて初めて見たし」
「ちょっと待って!!」
真奈美は思わず大声をあげる。きょとんとする克也に再び尋ねた。
「さっきから聞いてると克也、私と前にどっかで会ったことあった?どうして"また"なんて言うの?私、克也に泣かされたことなんてないよ?」
むしろ自分が、克也を心の中で泣かせてきたはずだ。それもたくさん。
だが彼はそれには応えず、また穏やかに微笑んだ。
気弱そうでそれでいて暖かい笑顔で。
「"私"…か。家では"あたし"だったのに、好きな奴の前では気取れるようになったのか…女の子は成長するのが早いもんだ」
彼は恐らく独り言のつもりだったのだろう。
だが、真奈美の耳には驚くほどはっきりと聞こえた。
そして、判ってしまった。
「パパ……!」
涙がまたこぼれ落ちる。
その涙を指でぬぐい取ると、克也は笑った。
「もう、行くよ。ママと元気でな。空で……お前達を見守っているから」
「パパ!!」
父の死体があがったという報告を受けたのは、克也が引っ越して翌日の事だった。
真奈美は大きくなった今でも考える。
転校生としてやってきた父は、自分に何が言いたくて現れたのだろうか、と。
不意に姿を消してしまったことを悔やんで、真奈美の様子を見に来たんだろうか。
思うに、川へ飛び込んでしまったのは、きっと魔が差しただけだろう。
父は気が弱い人だったから……
その父はもういない。
いや、空に父はいる。
そして空で真奈美を見守ってくれているのだ。
――空で。
-おしまい-