はじめての桜丘家

やっちんちでの勉強会が予定より早く終わっちまった俺達は、桜丘さんの家で続きをやることになった。
桜丘さんってのは小野山のダチだ。クラスは四組、こんな美少女が表坂に通っていたとは奇跡という他ねぇ。
大通りを抜けて閑静な住宅街へと入っていき、やがて大きなマンションの前で桜丘さんの足が止まる。
「ここ、ウチの家」
「へー、マンションかぁ。何階?」と尋ねる月見里に桜丘さんは一瞬キョトンとなり、すぐに答えた。
「あ、違うの。この建物全部がウチの家だから」
ハ?
もう一度、俺達は眼の前の建物を眺める。
どう見ても六階建てのマンションだ。一戸建て住宅じゃねぇ。
少し躊躇った後、桜丘さんが言い直した。
「えっと。一階から五階までがパパの病院で、六階はウチが家族と住んでいるスペースなの。表玄関は病院の入口だから、六階へ行く時は裏にあるエレベーターを使っていくんだよ。ついてきて」
言われて今一度表玄関を見てみりゃ〜ちゃんと書いてあるじゃねぇか、『桜丘医院』っつー看板が。
外観の先入観でマンションだと思いこんじまったが、建物一個まるまる桜丘家の所有ってわけか。
……もしかして、とんでもねぇお嬢様なんじゃねーかッ!?
俺達を乗せたエレベーターは直通で六階へ到着し、磨き上げられた扉をくぐった先にはビロードの足ふきマットとご対面した。
入口横に扉、これは多分トイレだな。んで細い廊下を抜けた先にはリビングがあり、奥にキッチンと扉が四つ見える。
リビングに置かれているソファは無難な色の布製だし、壁に綺麗な絵が飾ってあるぐらいで、これといってセレブを感じさせる飾りはねぇ。
もっとゴージャスな内装を予想していたんだが、割合フツーのマンションって感じだ。ちっと拍子抜けだぜ。
黄金の狸とか、金の延べ棒とか、どでかい花瓶とかがレースのマットの上に飾られているリビングを想定していたのによォ。
「ウチの部屋は奥にあるけど、ベンキョはリビングでやろ?」
桜丘さんの提案に、俺達は一も二もなく頷く。
俺だけならともかくも、ヤロウが二人もいるってんじゃ部屋に通したくないよな。
ソファに腰掛けて、俺は桜丘さんのド真ん前をキープ。小野山は彼女の隣、月見里が俺の隣に腰掛ける。
こうも距離が近いんじゃ小野山もノートを渋々テーブルの上に広げたんだが、これがまぁ、全然進歩のねぇ汚ねェ文字だこと。
ついからかってやりたくなったが、桜丘さんの手前だし、やめといてやらぁ。
「この位置だと、やりづらくない?小野山くんはウチの前に座って」
何ッ!ここで席チェンジのお知らせだとッ!?
桜丘さんは無情にも俺と小野山の場所を入れ替えさせてきて、俺は月見里と向い合せで勉強をやるハメになっちまった、トホホ。
けど、まぁ、そうだよな。やっちんちでやっていた間、桜丘さんが小野山の勉強を見ていたんだ。
真横に座られるよかぁ、正面に座ってもらったほうが教えやすいに決まっている。
チッ。俺も因数分解が苦手だったらなぁ〜。桜丘さんに教えてもらえたのによっ。
「おう、月見里。わかんねぇとこあっか?」
「え?あ、うん、大丈夫。どうしても判らなくなったら質問するから」
月見里は、ちょっと驚いた顔を見せた後、なんでか一歩引いた調子で断ってきやがった。
なんなんだよ、これじゃ俺が手持ち無沙汰じゃねぇか。
独りで宿題が出来るようなやつを連れてくんなよな〜、小野山も。
仕方ねぇ、ちゃっちゃと宿題を終わらせっちまうかぁ!

リビングに俺と月見里の走らせるシャーペンの音が響く中、時折隣からは「すごーい、今度はこれ、どうかなぁ?」とか「やった、また正解!小野山くん、覚えるの早いね」とかいった甘ぁい声が聴こえてきて、ちっとチラ見してみれば、桜丘さんがカンワィィ笑顔で小野山に微笑みかけており、ウォォォォ!悔しい!小野山、今すぐ俺と席替われェ!
息がかかる距離まで接近されているってのに、全然動じていやがらねぇ小野山にも腹立つなぁ。
モテ男クンは絶世の美少女に近寄られたぐらいじゃ平気ですってかァ?
「あ、あの、ちょっといいかな?」
遠慮がちに話しかけられて、そちらを見ると、月見里が怯えた目で教科書を差し出していた。
やべ、小野山ばかりに気を取られている場合じゃねーや。
俺の宿題は全然進んでねぇ。けど、やっと出番が来たんだし、まずは月見里の分を見てやっか。
月見里の判んねぇとする箇所を教えてやりながら、俺は、なおも桜丘さんと小野山を盗み見る。
だってよー、あのままじゃ桜丘さん、自分の勉強が出来ねぇじゃんか。彼女は小野山のカテキョじゃねーんだぞ?
「ふぅ、喉乾いちゃった。ちょっと待っててね、飲み物持ってくる」
声をかけようかってタイミングで彼女が立ち上がり、キッチンへ歩き去る。
その隙に、俺は小野山へ言ってやった。
「お前、桜丘さんを独占しすぎじゃねーのか、アァン?」
小野山は「独占?」なんてキョトンとしてやがったので、思いっきりメンチを効かせて忠告してやった。
「お前のベンキョ見るばっかで全然宿題できてねーだろーが、彼女っ。ちったぁ遠慮しろよな」
「あぁ……それは俺も言ったんだが、いいと言われてしまって」
ぼそぼそ言い訳する小野山の横へ詰めてきた月見里が「桜丘さん、宿題ほとんど終わっているみたいだったよ」と、ひそひそ囁いてきた。
クラス違うのに終わっているかどうかが何で、お前に判るんだよ?
「小野山くんに数学を教える前に、ノートを書く手が止まったんだよね。もう終わったか、わからないから投げたかの、どっちかだと思うんだけど」って、結局は単なる推測じゃねーか。
それに彼女が小野山担当になったのは、勉強会を始めて、すぐだったはずだ。
やっぱ自分の宿題は後回しになっていると見て間違いねぇ。
ちらと奥に目をやると、お盆に四つコップを乗っけて歩いてくるのが見える。
俺は床をスリッパで滑りながら近づき、「よぉ、代わりに運ぶぜ。桜丘さんは自分の宿題をやりなよ」と、とっておきの笑顔で促した。
「ありがとう。あ、でも床が滑るから気をつけてね」
気を遣われちまったが、なーに、床が滑るなら逆にスリッパスケートしながら持っていってやるぜ。
スリッパの裏が滑りやすいのか、それともフローリングの床が磨き上げられているのか、普通に歩いてもツルツル滑りやがる。
こういう時は無理して歩くよりも滑ったほうが早ェってもんだ。あ、そーれ、スイスイのスーイッ。
調子良くスリッパで滑る俺の真ん前を、黒い影がサッとよぎった!
「うわっ!?」
やべぇと思った瞬間、俺は無意識にコップを抱きかかえようとして失敗、思いっきり尻もちをついちまった。イダダ。
「坂下!」「坂下さんっ!?」
これだけ派手に転びゃ〜ヤロウどもも気づくってもんで、二人とも立ち上がってコッチを凝視してやがる。
あー、カッコ悪ィ。割れたコップも弁償しなきゃなぁ……
「危ないよ、そこに手をついちゃ!」
桜丘さんの忠告虚しく、俺は立ち上がろうとして床に手をつき「アィチィ!」と叫んだ。
ギャー、掌に割れたコップの破片がグッサリ刺さって、ギャアァァッ!
「待って、お薬持ってくる!」
ツルツル滑る床を物ともせず、桜丘さんが奥の部屋へUターンしたかと思う暇もなく、すぐ戻ってきて俺の傍へ膝をつく。
手慣れた様子でピンセットを用いて俺の右掌からガラスの破片を抜き去り、ガーゼに浸した消毒薬を当ててくれた。
すげぇ。一連の行動に迷いが一切ない。さては現代のナイチンゲール、いや……天使なのでは?
「血が止まるまで、これで押さえていて。深く切れてはいなかったみたいだけど、一応パパに相談してみる」
桜丘さんはポケットからケータイを取り出して、どこかへ電話をかける。
その間に小野山と月見里も近寄ってきて、月見里がガラスの破片を拾い集める中、小野山は俺を気遣ってきた。
「大丈夫か?坂下」
「ヘッ、ちっと転んだだけで大袈裟だっての」と強がったそばから掌がズキーンと傷んで、「ッツゥ……」と口の端から痛みが出ちまう。
くっそー、転ぶ原因を作った黒い影は一体なんだったんだ?
ふと遠くで「にゃー」と小さな猫の声がして、声のほうを見やると、黒猫がコッチを眺めてやがる。
あぁ、猫を飼ってたのか。こいつぁカンペキ俺のドジ、前方不注意で危うく猫まで巻き添えにしちまうとこだった。
電話を終えた桜丘さんが話しかけてくる。
「パパが言うには、大きな破片が少し刺さったぐらいなら縫うほどの怪我じゃないみたい。でも、当分は痛むかもしれないから安静にしておけって。包帯巻いておくから、手を出して」
そういや、彼女のパパは医者なんだったな。だから桜丘さんも手当に慣れているってわけか。
俺に指示する傍ら、月見里にも「あ、ウチがやるから月見里くんはソファに戻っていて。素手で触るのは危ないよ」と気遣いを見せている。
「大丈夫、こういうのは慣れているんだ。それより、桜丘さんは坂下さんの包帯を先にやってあげて」
なおも欠片を拾う月見里の横で、どこから取ってきたのか雑巾で床を拭く小野山も片付けに加わり、桜丘さんは、それ以上止めることなく俺へと向き直る。
「ごめんね、おまたせしちゃって。じゃ、手を出して」
俺は素直に手を差し出し、大きな絆創膏が貼られた上に、くるくると綺麗に包帯が巻かれていく手際を見守った。
あー、この怪我をきっかけに、もっと仲良くなれたりしねーかなぁ。
怪我の様子を見てもらいたいんだ、とか言って、ここに通っちまうか、ウヒヒ。
けど病院に通うとなったら、診察すんのはオヤジになんのか。それじゃ駄目だな。
俺の右手を軽く握って、桜丘さんが真面目な顔で言う。
「破片は全部取ったと思うけど、痛むようなら病院で観てもらってね。それじゃ今日は、ここまでにしよ」
うちの病院でヨロシク!とは宣伝してこないんだな、奥ゆかしいぜ。
勉強会がお開きだってんで、俺達三人は桜丘家をおいとました。
エレベーターで地上まで一直線に降りた後は、ぶらぶら同じ方向へ歩いて帰る。
「手、大丈夫?」
月見里にも気遣われ、俺は「ヘーキヘーキ!刺さった直後は痛かったけど、包帯巻いてもらったらピタッと止まったぜ?痛み」と怪我した手をブラブラ振ってみせる。
強がりじゃねぇ。本当に痛みが止まっている。
絆創膏と包帯で傷口を塞いだおかげじゃねぇかな。
多少安心した表情を浮かべる月見里の横を歩く小野山が、ポツリと呟いた。
「臨海学校までに治るといいな」

……あーっ!
そういやそうだ、海!海行くんだった、テストの後!


こんな手じゃー、泳ぐのはモチロン、水に入ることもできねぇわなぁ。
チクショウ、重ね重ねトホホだぜ。あの時、なんで俺は廊下をスリッパで滑ろうなんて思ったんだ。俺のバカ。
もう一度、包帯がガッチリ巻かれた右手を見る。
綺麗に巻いてもらったけど、これ、やっぱ明日になったら一回解いたほうがいいのかねぇ。
掌なんて怪我すんのは初めてだから、どうしたもんか判らねぇ。
落ち込む俺を月見里が「もし臨海までに治らなかったら、僕と一緒に遊ぼうよ」と励ましてくるが、いや、お前と一緒に遊んでもなぁ?
俺としちゃー、水着のやっちんや桜丘さんや佐藤さんとウェーイリゾート気分を味わいたかったんだよ、臨海で。
一緒に泳いだり浜辺で背中焼いたり、ちょっとそこのオイル塗ってくれるぅ?なんて、やっちんに頼まれたりしちゃってよ。タハー。
スイカをもりもり食べて、赤い汁が垂れてきた大弓さんの顎を、そっと指で拭ってやったりしてなぁ!
……ハァ。怪我が治らなかったら当日は一人で見学か、冴えねぇぜ。
ずっと黙って歩いていた小野山が急に俺の右手を掴むもんだから、俺は、ついムッとなって「なんだ?」と人相悪く返しちまった。
小野山は全く気にした様子もなく、ボソッと提案してくる。
「ギプス用の防水カバーを使えば、手を濡らさなくて済む。明日持ってこよう」
二人とも臨海学校までに治らない計算で話してんのはムカつくが、気を遣ってくれてんだってのは、よく伝わってくる。
にしても、ギプス用の防水カバー?変なもんを家に常備してんだな、小野山の奴ァ。
小学生の頃から空手をやっているらしいし、怪我とは、お友達なのかねぇ。
鉄パイプでぶん殴っても怪我しそうにないガタイに見えっけど。
「いいね!それ。泳ぐのは無理でも、砂遊びぐらいなら出来るんじゃないかな」
月見里は手を叩いて大喜び、小野山も俺を見下ろし、ボソボソッと励ましてきやがった。
「明日、試しにつけてみて、いけるようなら臨海学校で使うといい。だから……元気を出せ」
なんて邪気のねぇ顔で笑いやがるんだ。こちとら、今日は一日中お前に嫉妬したりムカついたりしてたってのによ。
こいつと一緒にいると劣等感さえ抱いちまうぜ。あぁ、駄目だ、駄目だ、今日の俺は全く駄目だ。
気合いを入れ直そうと両頬を両手でバシバシ殴ろうして、あっ、そういや右手は怪我してたんだった。
仕方ねぇ、小野山に頼んでみっか。
「おう、小野山」
「なんだ?」
「俺を殴れ」
小野山はポカンと間抜けに口を半開きにしたまま俺を見下ろし、隣で月見里が騒ぎ出す。
「なっ!?何言っているの、駄目だよ、坂下さん!小野山くんに殴られたら病院送りになっちゃうよ!」
や、そこまで本気で殴れたぁ言ってねーよ、俺も。
「ちょっとホッペタをバシバシする程度でいいってんだ、バシッと気合い入れてくんな」
分かり易く言い直しても、小野山は棒立ちのまんまだ。
チッ、変なフェミニズム精神でも持ってやがんのか?なにがあろうと女は殴れねぇっつー。
そう考えていたら、やっとこ小野山が動き出し、バシバシが来ると予想して構える俺の頬を撫でてきやがるもんだから。
「ギャー!何しやがんだッ、テメェ!」
俺は思わず殺人シュートの如き蹴りを繰り出し、しかも小野山は、いとも簡単に渾身の金的シュートを避けやがった。
「え?えっ!?な、なんで蹴ったの、蹴ろうとしたの!?」
突然の暴力行為で月見里を狼狽えさせちまったのは、すまねぇと思うが、けど悪いのは小野山だ。
「なんで今、サイコーに気持ち悪い真似しやがったんだ!?もしやテメェ、俺のこと」
「虫が……」
熱り立つ俺の怒号を、ぽつんと小さな呟きで遮って、小野山が握った手を解き放つ。
ありゃあカナブンか?小さな虫が空の彼方へ飛び立っていくのを、三人で見送った。
つまり、だ。俺の頬に虫が止まっていたんで、取ってやろうと思ったんだな?
なら、くちで言えやぁぁぁッッ!
虫が見えなくなった後に小野山が振り向いて、俺に問う。
「俺のこと……とは、なんだ?」
はっ?
いやいや、今ここで、それを問い詰めんのかよ、勘違いさせた元凶のお前が!
やべぇ、小野山なんかが相手だってのに、また頬が熱くなってきやがった。
なんでだよ、なんで俺ァ、コイツを無駄に意識しちゃってんだ?
自分でも自分が判らねぇ。特に今日の俺は、バカだし考えなしだしで滅茶苦茶だ。
絶世の美少女と出会ったせいで、頭がゆだっちまったのかもな。今日は、さっさと帰って全リセットしよう。
月見里や小野山が何か言うのにも構わず、俺は帰り道をダッシュで駆け抜けた。

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