はじめての桜丘家

坂下の友人宅での勉強会が唐突に終わり、俺達は桜丘の家で続きをやることにした。
「ここ、ウチの家」
住宅街に聳え立つマンションが彼女の家であった。
しかし表玄関には『桜丘医院』と書かれた看板が取りつけられており、ここは病院じゃないのかと戸惑うも、すぐに俺は考え直す。
一階はテナントで病院が入っているだけだ。彼女は上の階に住んでいるんだろう。
――そう思ったが、違った。
「へー、マンションかぁ。何階?」
月見里の問いに、桜丘は一瞬戸惑いを見せた後に答える。
「あ、違うの。この建物全部がウチの家だから。えっと、一階から五階までがパパの病院で、六階はウチが家族と住んでいるスペースなの。表玄関は病院の入口だから、六階へ行く時は裏にあるエレベーターを使っていくんだよ。ついてきて」
この建物全てが彼女の家だと言う。分譲ではなく購入だったのか。
俺達を乗せたエレベーターは、チンと小気味よい音を立てて六階で止まる。
自宅専用のエレベーターまで設置できるとなると、桜丘家は途方もない金持ちなんじゃなかろうか。
そんな金持ちの趣味が昆虫採集というのも変わっている。
虫を追いかけて走り回るとは、意外やアクティブなんだな、お嬢様というのも。
そんなお嬢様は桜丘だけなのかもしれないが。
顔が映り込むほどの輝きを見せる金属の扉を開けると玄関には如何にも高そうな足拭きマットが敷かれており、俺は体重がかからないように早足で通り抜ける。
玄関横の扉は素通りし、廊下を抜けた先の部屋で落ち着いた。
向かい合わせで中央に置かれたソファーは硬すぎず柔らかすぎずで、しっかりした造りだ。
壁には絵が一枚飾られている。あいにくと絵の知識はないので、誰の絵なのかは判らない。
足触りの良さから考えて、この絨毯も俺の家では敷けないほどの値段がするのだろう。
「ウチの部屋は奥にあるけど、ベンキョはリビングでやろ?」
坂下もそうだったが、女子というのは、たとえ友人といえど自分の部屋には通したくないらしい。
まぁ、部屋など、どこだっていい。ソファーへ腰掛けたら、月見里が俺の真正面に座った。
「小野山くんは数学の他にも、苦手な教科があるかな?理科ぐらいなら、僕でも教えられると思うよ」
月見里は確か帰国子女という触れ込みだったはずなのに、一番苦手な教科は英語のようだ。
英語圏ではない国にいたのか?
得意科目は理科か。なら、数学の宿題を終えた後に頼んでみよう。
ゼロから百まで何もかもが、さっぱり判らないと伝えた上で。
斜め向かいに座った坂下の視線は、俺のノートへ一直線に向かっている。
また汚い字だと罵られなきゃいけないのか……
友人としてつきあいやすい反面、思ったことを何でも正直に言ってしまうのが彼女の欠点だ。
坂下は俺のノートを覗き込んで数秒ニヤニヤしていたが、何も言わなかった。
なんだ?あいも変わらず汚い字だと判って満足したのか。
何も言わないとは、彼女らしくもない。
と、あれこれ考えていたら桜丘が席の入れ替えを命じてきた。
「この位置だと、やりづらくない?小野山くんはウチの前に座って」
真横でも見えると思うが、教える側がやりづらいと感じるのなら、素直に従っておこう。
「じゃ、さっきの続きでやろっか。ウチが問題を出すから、答えてね」
桜丘を誘った時、彼女は自分はバカだから勉強会に誘ってくれて嬉しいというような事を言っていた。
だが今こうして即興で問題を作れるってのは、頭が良い証拠と言えないか?
少なくとも、数学に関してはバカではない。彼女には標準以上の知識がある。
桜丘の作る問題は、俺にも解ける簡単なものだ。
以前の俺なら解けなかっただろうが、あれから必死で暗記したんだ、基本の式ってやつを。
おかげで多少なら判る。新しい友人の前で恥をかかずに済む程度には。
ただ、肝心の宿題は、さっぱり判らない。これが解けるようになれば、数学は苦手教科ではなくなる。
早くそうなりたいもんだ。
「すごーい、正解っ」
俺の解答を覗き込んで、桜丘がパチパチ小さく拍手する。
すぐ「今度はこれ、どうかなぁ?」と作り終わっていた次の問題を出してきて、休む暇も与えない。
意外とスパルタだ。虫を眺めている時の、のんびりした調子とは大違いだ。
少し考え、閃いた答えをノートに書き込む。
なんてことはない。先の問題と数字が違うだけじゃないか。
「やった、また正解!小野山くん、覚えるの早いね」
桜丘は人を良い気分にさせるのが上手い。
褒められて嫌な気分になる奴は、そうそういまい。嫌いなものも、やってやるという気になってくる。
ちらと横目で坂下達を伺うと、向こうは会話をかわすことなくノートへ黙々と書き込んでいる。
坂下は当然として、月見里も自分で言うほどバカじゃなさそうだ。
誰かに教えを請うことなく、自力で宿題を解ける二人が羨ましい。
ときに、俺にばかり教えているが、桜丘は自分の宿題をやらなくていいのか?
「桜丘」
「なぁに?」と人当たり良く微笑んでくる彼女へ言った。
「お前も自分の宿題をやってくれ。あとは自力で何とか」
「まだ無理だよ。そっちの宿題、うちのクラスより難しいし。もう少し付き合うよ」
あっさり看破されたばかりか、俺への協力体制を解く気もないようだ。
桜丘の苦手教科は化学だったな……
もしや自分の宿題を投げたいが為、俺に構っているのだろうか。
駄目だ。これは勉強会なんだ、彼女にも教え役は必要だ。
そうだ、化学なら月見里が教えられるかもしれない。
先ほど理科は得意だと豪語していた事だし。それに坂下もいる。
大丈夫だ。俺が早く終わらせれば、その分、桜丘が自分の宿題をやる時間も増える。
その後も何個か解いて、問題が品切れになった時だった。
「ふぅ、喉乾いちゃった。ちょっと待っててね、飲み物持ってくる」
俺を褒めるのにも疲れてきたのか、桜丘が腰を上げる。
手伝おうかと言い出す暇もないまま、さっさと奥の台所へ歩いていってしまった。
彼女がいなくなるのを見計らったかのように、坂下が小声で囁いてきた。
「お前、桜丘さんを独占しすぎじゃねーのか、アァン?」
独占?
独占もなにも、教えてくれと頼んだ覚えはない。
向こうが気を利かせて、世話を焼いているだけなんだが……
なので「独占?」と尋ね返したら、坂下は剣呑な表情で俺を睨みつける。
「お前のベンキョ見るばっかで全然宿題できてねーだろーが、彼女っ。ちったぁ遠慮しろよな」
宿題に熱中しているのかと思いきや、きちんと周りの様子を伺う余裕があったようだ。
偏差値40の学校が出す宿題なんぞ、坂下にとっちゃ、お遊びみたいなレベルなのかもしれない。
「あぁ……それは俺も言ったんだが、いいと言われてしまって」
俺の横へ詰めてきた月見里も口添えする。
「桜丘さん、宿題ほとんど終わっているみたいだったよ」
そうなのか?
全く手つかずのうちに、俺の教師役へと回ったように見えたんだが。
「小野山くんに数学を教える前に、ノートを書く手が止まったんだよね。もう終わったか、わからないから投げたかの、どっちかだと思うんだけど」
やはり早々に投げていたんじゃないか。
せっかく勉強会に参加しているのに、自分の勉強をやらないんじゃ意味がない。
不意に坂下が席を立つ。
桜丘の手伝いをするつもりだろう。
それには構わず、俺は月見里へ伺いを立てた。
「桜丘は化学が苦手だそうだ。教えてあげられないか?」
「化学?いいよ、僕に判る範囲でなら」と二つ返事で頷かれ、ついでに尋ねた。
「……月見里は勉強が好きなのか?」
「えっ?どうして?」
「誰に教えを請うことなく宿題をやれるってのは、好きだから……じゃないのか?」
「え、あーっ……いや、全然全く判らないってわけじゃないんだ。ただ、長文や引っ掛け問題に弱いから、そこんとこの対策を誰かに教えて欲しいなぁと思って参加したんだ、今日」
なんだと?
文法を理解しているんだったら、坂下並の学力があるんじゃないか。
この勉強会へ誘った時、月見里も桜丘同様、自分はバカだから助かる、是非参加したいと喜んでいた。
しかし、今の状況を見る限りだと月見里は全然バカではない。
バカじゃないのに、何故この学校を選んだんだ。
そもそも帰国子女なら、家だって貧乏じゃない。同じ私立でも、もっと上を狙えたはずだ。
「ネットで調べても、その時は判った気になるんだけど、実際に問題をやってみたらアレッ?ってなることが多くてね……ハハッ。勉強は好きだけど、応用に弱くって」と笑って、月見里は頭をかく。
引っ掛けと長文に弱いから、この学校しか受からなかったんだろうか。
月見里の求めに応じられるのは、坂下しかいない。
彼女に全部押し付けるようで気は進まないが、月見里への助言が一切なしな点を踏まえると、桜丘も英語は得意ではあるまい。
考え込む俺の耳にガラスの割れる音、それから坂下の「うわっ!?」という悲鳴が飛び込んできて、慌てて音のしたほうを見やる。
「坂下!」と叫んだ俺と同時に、月見里も「坂下さんっ!?」と叫んで立ち上がる。
「危ないよ、そこに手をついちゃ!」
桜丘の鋭い叱咤が飛び、続けて坂下が「アィチィ!」と叫んだ。
立ち上がろうとして、割れたガラスのある場所に手をついてしまったようだ。
押さえているのは右手、利き手じゃないか。咄嗟とは言え、迂闊な真似を……
血が、真っ赤な血が腕をつたって流れている。
刺さったにしては血の量が多い。大丈夫なのか?
「待って、お薬持ってくる!」
桜丘が身を翻して奥の部屋へ走っていき、すぐに救急箱を持って戻ってきた。
慣れた手つきでピンセットを取り出すと、流れる血にも怯まずガラスの破片を摘んでビニール袋へ落とす。
危険物を片付けた後は速やかに消毒薬をガーゼに浸して、傷口へ当てた。
さすがは医者の娘、完璧な応急処置だ。
「血が止まるまで、これで押さえていて。深く切れてはいなかったみたいだけど、一応パパに相談してみる」
彼女が携帯電話で父親に助言を求める間、俺と月見里も坂下のそばへ近寄った。
月見里は素手でガラスの破片を拾っては、桜丘の持ってきたビニール袋へ入れてゆく。
大丈夫か?と尋ねるまでもない。細心の注意で危なくない部分を持っている。
床に座り込んだ坂下を「大丈夫か?坂下」と慮ってやれば、坂下は「ヘッ、ちっと転んだだけで大袈裟だっての」と憎まれ口を返しつつ、右腕を掴んで「ッツゥ……」と呻く。
こちらは、あまり大丈夫ではなさそうだ。
肉眼で見える大小の欠片は概ね桜丘が取り除いてくれたようだが、念の為、明日は医者に診せたほうがいい。
しばらく洗い物や風呂も避けたほうが無難だろう。
欠片を拾う月見里に併せて、台所から持ってきた雑巾で床を拭く。
事前に断るのを忘れたが、あとで謝っておこう。
電話を終えた桜丘が坂下に父親の助言を伝える。
「パパが言うには、大きな破片が少し刺さったぐらいなら縫うほどの怪我じゃないみたい。でも、当分は痛むかもしれないから安静にしておけって。包帯巻いておくから、手を出して」
包帯を巻く桜丘を見ながら、俺は、ぼんやり考えた。
もうすぐ臨海学校だってのに、不用意な怪我をしてしまった坂下の無念を。
「破片は全部取ったと思うけど、痛むようなら病院で観てもらってね。それじゃ今日は、ここまでにしよ」
坂下が怪我をしたってんじゃ、勉強会どころではない。
解散だ。
来る時と同じエレベーターで降りて、帰路を急ぐ。
いや、急いで帰ろうとしたんだが、坂下の様子がおかしい。
ぼんやりした表情で歩いており、足取りもおぼつかない。
もしかしたら、激しい出血は初めてだったのかもしれない。
仕方ない、彼女の歩調に併せて帰ろう。本当は抱きかかえてでも早めに帰らせたいんだが……
「手、大丈夫?」
「ヘーキヘーキ!刺さった直後は痛かったけど、包帯巻いてもらったらピタッと止まったぜ?痛み」
気遣う月見里の前で、坂下は右手をブラブラ振っている。
今は絆創膏と包帯が傷口を覆っているので、痛みを感じにくくなっているだけだ。
空気が触れれば痛みも復活する。
坂下は時々こちらが予想しない行動に出るから、家で無茶しないか心配だ。
「臨海学校までに治るといいな」
俺の呟きに、坂下は「アーッ!」と絶叫して天を仰ぐ。
忘れていたのか。ここ数日、臨海で何をするかで下校の雑談が盛り上がったというのに。
「もし臨海までに治らなかったら、僕と一緒に遊ぼうよ」
月見里の励ましも効果なく、しょぼくれる坂下の姿が、あまりにも惨めで見ていられない。
なにかあるはずだ。海辺で遊ぶ時に、手を濡らさなくて済む方法が――
そうだ。
不意に俺の脳裏をよぎったのは、小さい頃よくお世話になっていたアレだった。
「ギプス用の防水カバーを使えば、手を濡らさなくて済む。明日持ってこよう」
ギプス用防水カバーとは、ギプスを嵌めたり包帯を巻いた箇所をすっぽり包み込む耐水性の袋だ。
差込口は水が入らない仕組みになっているから、ビニール袋を巻きつけるよりは密封性も高い。
「いいね!それ。泳ぐのは無理でも、砂遊びぐらいなら出来るんじゃないかな」
月見里は手放しで喜び、坂下は、というと。
覇気のない、虚ろな両目が俺を見上げている。どんなものか想像がつかないのかもしれない。
口で説明するのは難しい。とにかく明日、学校へ持ってくるしかない。
「明日、試しにつけてみて、いけるようなら臨海学校で使うといい。だから……元気を出せ」
坂下は俺の慰めに、ぽかんと呆けた後、二、三度激しく首を振った。
かと思えば、キッ!と険しい表情で空を見上げて、両手で頬を叩く寸前、動きを止める。
「おう、小野山」
「なんだ?」
「俺を殴れ」
――何を言われたのか、瞬時に理解できなかった。
殴れ、だと?坂下をか?
考えてみたこともなかった。
第一、なんで殴らなきゃいけないんだ。
「なっ!?何言っているの、駄目だよ、坂下さん!小野山くんに殴られたら病院送りになっちゃうよ!」
泡食う月見里を無視して坂下が繰り返す。
「ちょっとホッペタをバシバシする程度でいいってんだ、バシッと気合い入れてくんな」
いや、それにしたって俺に頼むのは筋違いだ。
他人の気合い入れで殴ったことなどないし、手加減できるかも判らない。月見里に頼んでくれ。
じっと坂下を眺める俺の目が、視界の隅に動く何かを捉える。
羽音と共に飛来したそれは、坂下の頬にピタリと止まった。
そこに止まるのは危ないぞ、と虫に言ったところで人間の言葉が伝わるわけもない。
そっと手を伸ばして虫を捕まえた直後。
「ギャー!何しやがんだッ、テメェ!」
風切る蹴りを反射的に避ける。
蹴りを繰り出してきたのは坂下だ、なんで蹴ってきたんだ!?
「え?えっ!?な、なんで蹴ったの、蹴ろうとしたの!?」
蹴られそうになった当の俺も驚いたが、月見里には、もっと意味が判らなかったに違いない。
端から見れば殴れと指示しておいて、相手が近寄った途端、蹴り飛ばそうとしたんだからな。
「なんで今、サイコーに気持ち悪い真似しやがったんだ!?もしやテメェ、俺のこと」
蹴ってきた坂下も泡を食っており、なにがなんだか判らない。
判らないまでも考えるに、坂下は誰かに体を触れられるのが嫌なんだと仮説を立ててみる。
だから、俺を本能のままに蹴ろうとした。そういうことか?
いや、しかし、それなら殴れというのは、どういうことだ。触らないと殴れないぞ。
混乱する頭で俺は「虫が……止まっていたんだ」と、触った理由だけでも伝えておく。
手を広げると、甲虫が空へ飛びたっていった。
咄嗟で蹴りを避けた際に、うっかり握りつぶさなくてよかった。
あれが何の虫であれ、無駄な殺生はしたくない。
それにしても、だ。今日の坂下は、一体どうしてしまったんだろう。
突然殴れと言ってきたり、頬を少し触られた程度で怒ったり。
飲み物を運ぶ途中で転んだのも解せない。
反射神経が鈍かったら、スケボーは出来ないはずだが。
それに――
「俺のこと……とは、なんだ?」
疑問が口をついて出る。
坂下は俺に何を訊くつもりだったんだ。
もし友情を疑われているんだとしたら、これほど悲しい事もない。
俺は、坂下。お前を守りたいと考えている。
お前は初めて、恋愛感情なしで友達になってくれた相手だからな。
返事を待つ俺の耳を、坂下の絶叫が突き抜ける。
「ダァァァーーー!うるせぇ、うるせェッ、あばよ!!」
それだけじゃない、滅茶苦茶なフォームで走り出したじゃないか。
「ま、待てっ!前を見て走れ、危ない!」と声をかけたんだが、聴こえていたのかいないのか。
坂下の背中は、あっという間に遠ざかり、住宅街へと消えていった。
呆気にとられる俺と月見里を置き去りにして……

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