恋香の家で遊ぼう
成りゆきで、助けた相手と友達になった。それが隣のクラス、1−1に転校してきた坂下 恋香だ。
噂通りのチビで、パッと見、小学生男子のようだが、れっきとした同学年女子だ。
転校生でありながら、何故、クラスで仲間外れにされていたのか。
その答えは、恐らく尾行してきた女が知っている。
坂下が"佐藤さん"と名を呼んでいたから、同じクラスなんだろう。
その佐藤だが、無言のまま下を向いて歩いている。
虐めをしていると他クラスの俺に知られたのが恥ずかしいんだろうが、自業自得だ。
だが坂下は何が嬉しいのか、俺だけではなく佐藤にも多々話題を振っては無視されていた。
どれだけ拒絶されようと、坂下は佐藤と仲良くなりたいようだ。
彼女がクラスに溶け込めるよう、俺にも何か出来ることがあればいいんだが。
不意に坂下が立ち止まり、ニッと笑って振り返る。
「ここだぜ、俺ンチ」
ニ階建ての一軒家だ。小さな庭には黄色い花が咲いており、風に揺れている。
ベランダに干された白いシーツが目に眩しい。
「たっだいま〜!」
坂下が足で行儀悪く玄関の扉を蹴り開けるもんだから、俺と佐藤の目は点になる。
いつも、こんな乱暴に扉を開けているのか?いつか壊れるぞ。
玄関へ一歩入って、飾られている花瓶に気がついた。
挿した花は庭に咲いていたやつと同じモノだろうか?
微かに漂う匂いは甘く優しい。
フローリングの廊下は、どこまでも綺麗に磨かれて、がさつな印象を受ける坂下の家とは思えないほど美しい。
「こらー、恋香!また蹴っ飛ばして開けてー。扉が壊れるって、なんべん言ったら判るの!?」
甲高い声と共に部屋から飛び出してきたのは、坂下の母親だろうか。
否、母親というよりは、姉の如し若々しさだ。坂下が童顔なのは、この母親の血を引く娘だからかもしれない。
「あら、お客さん?」と呟く母親に坂下がVサインを突き出す。
「母ちゃん、やったぜ!転校一週間目でダチができた!」
「まぁ!まぁまぁまぁ、お友達?わぁ、やっとお友達を、うちに連れてきてくれたのね!やだ、あの紅茶まだあったかしら?」
坂下の母親は出てきたばかりの部屋へ戻っていき、俺達は坂下の案内でリビングに通される。
玄関もそうだったが、坂下の家はチリ一つ落ちていない。掃除が隅々まで行き届いている。
家具は色調を揃えてあり、向かい合う形で置かれたソファにかけられたパッチワークカバーは手作りの温かみを感じた。
「……綺麗な家だ」
思わず感想を漏らしてしまったが、坂下には聞き返されなかったので、俺も平然を装いソファに腰掛ける。
ふかふかして尻に優しい弾力を感じるソファだ。
どこからどこまでも、俺の家とは大違いだ。
俺の家は雑然としている。母は仕事で忙しく、父は何もしない。俺も片付けは苦手だ。
誰も片付けをしないから、いつも何かしら物が床に落ちている。
こんな家を見た後じゃ、ますます坂下は俺の家に呼べない。
「佐藤さんもソファに座ってくれよ」
坂下に促された佐藤が、俺の斜め前で腰を下ろす。
坂下は俺の真正面に陣取り、さっそく話を振ってきた。
「なぁ、お前らに訊きたいんだけど、お前ら、なんか部活やってんのか?このガッコ、部活がいっぱいあって、どれに入ったらいいのか全然わかんねーんだよなー。オススメ部活があったら教えてくれや!」
……随分と答えに窮する話題を振ってきたもんだ。
お勧めと言われても、坂下が何を好きで何が得意かも判らないというのに。
それに俺は、まだ一年生だし、部活は一箇所しか経験していない。
ひとまず「空手部に入った」と答えると、坂下は、ぱぁっと顔を輝かせる。
「空手!なるほど、お前でっけぇもんなー。先輩を一発でノしちまったし、やっぱ試合でも強ェんだろー?」
「……まだ試合には出ていない。高校の試合には」
「高校の試合には?ってこたー、小学中学の試合にゃ出たってか」
頷きで答え、逆に聞き返した。
「……坂下は、なにが好きだ?それによって勧められる部活も変わる」
坂下は佐藤が気になって仕方ないようだが、それでも俺の逆質問には答えてくれた。
「俺の趣味?そーだなー、今一番ハマッてんのはスケボーだ!」
スケートボードなんて洒落たものにハマッている生徒は、うちの学校には一人として居まい。
なにより、スケボーは部活にない。
部活の話を振っておきながら、こんな方向に話を持っていかれるとは予想外だった。
質問を間違えたか?だが、他にどう訊けというのか。
俺達が沈黙したタイミングを見計らったかのように、坂下の母親がリビングへ戻ってきた。
来客にお茶を出すところも、俺の母とは全く違う。これこそが、あるべき母親の姿だ。
坂下の母親はカップをテーブルに置いていくと、俺の隣へ腰を下ろし、ずずいと距離を詰めてくる。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ、お二人とも恋香のお友達?いえ、遊びにいらしたんですから、お友達ですよね、うふふふっ。こちら、おっきぃわねぇ〜。しかも男の子!?いえね、この子ったら昔から女の子の友達ばかりで、いえ、女の子だから女の子の友達が多いのは当たり前なんですけど、まぁ〜、高校生になって初めての男友達だなんてねぇ!ね?あなた、お名前なんておっしゃるのかしら。よかったら、おばさんに教えてくださる?」
一気にまくしたてられて、俺がポカンとしている間にも、坂下の母親は止め処なく喋り続けた。
「それにしても背がお高いわねぇ〜、うちの人より大きな高校生って初めて見るわぁ。ね、あなた、何かスポーツやっていらっしゃるの?」
「おい母ちゃん!」と途中で坂下が止めに入っても聞く耳持たずだ。
坂下も饒舌だと思ったが、母親は、それ以上だ。
「恋香とお友達になるからには、やっぱりスケボー関連かしら!あなたほどの好体格なら、きっと青空にも映えるでしょうね!今度あの子とやっているとこ見せてくださる?」
スケボーだと決めつけて話す相手に、俺は、やっとの思いで答えた。
「い……いえ……スケートボードは、やっていません」
「あら〜、ごめんなさいね、勝手に決めつけちゃって。じゃあ、そうね、バスケでしょう!どう、当たった?この身長ならダンクシュートも映えるでしょうね!」
今度はバスケか……確かに俺は背が高い。
この身長のせいで、小さい頃は何度バスケ部員と間違われたことか。
おかげで、バスケが少々嫌いになりかけた。なんてのは、今はどうでもいい。
問題は坂下の母親の距離感だ。
隣に座っていたのは最初だけで、今は顔がくっつきそうな距離まで接近されている。
「い、え……その……」
『離れてくれ』と、はっきり言えない自分が、もどかしい。
坂下の母親は俺が嫌がっているのを気づいているのかいないのか、さらに語り口はスピードを増してゆく。
「あらあら、違った?うーん、難しいわねぇ。でも、この子とお友達になるぐらいだから、絶対スポーツ系だとおばさん思うんだけど。あっ、判った!今度は絶対自信あるわ、柔道か空手でしょう!見るからに腕っぷしが強そうですものねぇ」
見るからに、と言いながら、俺の腕や肩にベタベタ触れてきて、もう俺は目をそらすしか出来ない。
馴れ馴れしい態度の女は、これまでにも多々いた。
しかし、ここまで距離ゼロな女には生まれて初めて遭遇した。初対面だというのに、全く遠慮がない。
「は、はい……空手、です……」
「わぁ、やったぁ!大当たり!うふふっ、それにしては大人しい方ねぇ。恋香、うるさくってごめんなさいね。でも悪い子じゃないんですよ、私が言うのもなんですけど、優しいところもあるんです。この間だって雨に濡れて病気になりそうだった子猫を拾ってきてねぇ〜、うちじゃ飼えないからっていうんで飼ってくれる人を夜まで探し回ったりしたんですよ」
娘の数十倍は騒がしい母親だ。おまけに娘自慢まで始まった。
雨の日に濡れた子猫を拾ってきて、飼い主を探してやったのか……
見かけによらず、優しいんだな。
感心していたら、さらに母親が距離を詰めてきた。
ぐいぐい押されて、俺はソファから押し出されそうになるのを踏ん張って耐えた。
「ねね、この子、学校ではどうですか?真面目に授業を受けていますか?もしサボッていたり爆睡していたら、遠慮なく手刀を首筋に叩き込んで起こしてやってくださいねぇ。大丈夫、ちょっとやそっとじゃ怪我しないぐらい頑丈な子ですから!あ、でも、あなた、えぇと、お名前なんでしたっけ?あなたの席は恋香と近いのかしら。うふふふ、本当に大きい……うちの恋香と並ぶと凸凹コンビって感じ!ねぇ、あなたから見て恋香は」
俺の体を這いずり回る手が気になって、話も頭に入ってこない。
そろそろ誰か助けてくれると嬉しいんだが……
そう思っていたら、坂下が割り込んでくれた。
「母ちゃん!母ちゃんがまくしたてるから、小野山、全然喋れねーだろ!」
「あら〜小野山さんとおっしゃるの!小野山、何さん?」
「小野山 育だよ!紅茶ありがとう、ほら、出てった出てった!俺達これから一緒に遊ぶんだよ、母ちゃんは邪魔邪魔!」
「あーん、私にも小野山くんと喋らせてぇ〜」
母娘の攻防は娘が勝ち、坂下は両手で母親の背中を押してリビングから追い出した。
――ようやく静寂が戻ってきた。
そっと額に手をやると、びっしょり汗をかいている。
顔に息がかかる距離まで他人に近づかれたのは、試合以外じゃ小学生以来だ。知らず緊張していたらしい。
思わず溜息が出てしまい、内心焦りを覚える。
まずい、今のは感じ悪く思われたかもしれない。
場を取り繕うべく、俺は坂下に話を振った。
「……あれが、お前の母か」
「おう。うるさくてごめんなー?二人ともビックリしただろ」
呆然としていた佐藤も我に返り、小さく頷く。
「は……はい」
一瞬顔をあげて坂下を見るも、すぐに俯いた。
何かを話しかけようとしてやめた、そういう風にも見える。
不意に俺の脳裏をよぎったのは、1−1に巣食うヤンキーどもの姿であった。
もしかしたらリーダーシップを取るヤンキーが坂下を無視しようと言い出して、その流れに佐藤や他の生徒も巻き込まれたんじゃなかろうか。
ならば、話は早い。あのクラスで虐めていない奴を探して、坂下と友達になってもらおう。
第一号は、そこの佐藤だ。
俺の見立てでは、恐らく彼女は坂下を嫌っていない。
我ながら名案だ。
すっかり冷めた紅茶をすすっていると、坂下が明るい声で言った。
「なぁ、今日はこのまま勉強会と洒落込もうぜ!ほら、宿題出てんだろ?わかんねぇとこあったら、お互いに教えあおうじゃねーの」
何?
バカ学校へ転校してきたバカのくせに、宿題をやるつもりなのか?
俺は、ここに入学してから宿題を一度も提出したことがない。
俺だけじゃない。ほとんどの奴が、そうだ。宿題なんてものは、勉強好きだけがやればいい。
「宿……」と言いかけた俺の後を佐藤が「……題?」と続ける。
そして、こうも呟いた。
「そういえば、天馬高校……でしたよね、坂下さんが前いた学校って」
天馬高校、略して天高なら俺も知っている。
偏差値50から55の、進学校とまではいかなくても頭のいい奴が通う学校だ。
坂下は天高の生徒だったのか。
いや、待て。天高に入れるぐらい頭がいいのに、何故わざわざ低レベルのうちへ転校してきたんだ?
素行に問題があったのか、或いは親の転勤とも考えられるが、しかし昔から此処に住んでいたようでもある。
やはり素行か。素行が天高にそぐわなかった。
こいつの口の悪さを考えると、あながち間違っていまい。
だが、雨の日に子猫を拾ってくる優しさもあるんだったな。ガラが悪いのか悪くないのか、はっきりしてくれ。
髪の毛は黒い。真っ黒だ。
化粧っ気が全くない。
普段着が制服の学校へ通うにしては、上下ジャージのチョイスとは些か妙だが、俺も衣類のセンスに関しては人のことを言えない。
それに、こいつの天高制服姿、要するにスカートを履いた坂下を想像できない。
スカートよりは短パンが似合いそうな顔をしている。
小学生男子の軍団に混ざっていても違和感がなさそうな……
「勉強……教えてくれるんですか?」
俺があれこれ思考を巡らせている間に、佐藤が一歩、坂下へ歩み寄る。
坂下は自信いっぱい、胸を叩いて答えた。
「おう!何でも聞いてくれよ、教えられるとこは全部教えてやっから!で、どこがわかんねぇんだ?小野山、お前も遠慮なく聞いていいぞ」
話を振られては、宿題をやらないと言いづらくなってくる。
仕方なく鞄から数学の教科書を取り出すと、俺は答えた。
「全部判らん」
「は?」
「何が書かれているのか、どういう意味なのか、最初から最後まで読んだが何から何まで理解できない」
一応、入学したての頃は俺にだって勉強を理解しようとする姿勢があった。
しかし教科書に目を通した瞬間、この本が何を言っているのか理解できなくなって頭を抱えた。
何語で書かれていようと、理解できないものは理解できない。
算数だって割り算の辺りで脱落しそうになっていたんだ。数学で異世界に達した。
因数分解やら連立不等式やら、何故こんなものを苦労して解かなければいけないのか。
これは、本当に俺の将来で役に立つ知識なのか?
そう考えだしたら、必要ないものだと感じられるようになり、全ての教科を放り投げた。
佐藤も英語の教科書を取り出して、小声で囁く。
「単語は判るんですけど……文章に繋げようとすると、順番がわからなくなって。すみません」
しばしポカンと呆けていた坂下が、佐藤の答えを聞いた途端しゃきしゃき話し出した。
「まずは理解しようとすんじゃなくて覚えるんだ。数学や科学なら定義を、古典や英語なら文章の形式をさ」
「え?」と、佐藤は首を傾げる。
「何故こうなるか?は、後でじっくり考えりゃいい。お前らは、まだ一歩も踏み出しちゃいねーんだ。勉強の第一歩は形を覚えることから始まるんだよ。なんだってそうだろ?やり方が判んなきゃ、出来るもんもできねーんだ」
坂下の言わんとすることは判る。要は型だ。
空手の型と同じように、基本となる解き方を丸暗記せよと言いたいんだろう。
そうだ。理屈では判るんだが、実際に覚えるとなると、記憶力に自信がない。
受験もド忘れが激しくて落ちるんじゃないかと冷や冷やしたが、定員割れに助けられたようなもんだ。
「ノート見せてみろ、小野山」
突然の不意打ちで、俺の反応は遅れた。
あっと思った時には鞄をぶんどられており、「ま、待った!」と手を伸ばしても寸でのところで坂下には逃げられて、ノートを開かれてしまう。
「うわー、きったねぇ字だな!」
うわーと叫びたいのは、こちらだ。
わざわざ言われずとも、俺の字は汚い。自分でも後で読み返せないほどの汚さだ。
なら綺麗に書けと言われるだろうが、綺麗に書こうとすると手がブルブル震えて文字にならない。
どうせ予習も復習も宿題もやらない、ポーズだけのノート取りだったんだ。
だが、今、坂下に見られたせいで俺の羞恥心は一気に高まり、今後はノートをきちんと取ろうと思った。
不思議だ。今日できたばかりの友達に見られた程度で、ここまで恥ずかしくなるというのは。
バカだと思っていた相手が、実はバカじゃなかったせいなんだろうか?
「ノートってな、あとで読み返すためのメモだぜ?こんなきったねぇ字で書いてちゃ、困るのは自分だぞ」
天高での坂下は授業を真面目に受けて、ノートを次の勉強へ活用するタイプの生徒だったようだ。
となると、素行の線はナシか。
まぁ、いい。今は坂下の転校理由を考えるよりも、先にやることがある。
「それで……俺はまず、何を覚えるべきなんだ?」
「そうさな、基本の計算式を全部。けど一気にやったら頭がパンクすっから、少しずつ覚えていこうぜ」
ニッカと歯を見せて笑う坂下に、俺の顔も自然とほころぶ。
気持ちの良い笑顔だ。こんな笑顔を浮かべられるやつが、悪い人間のわけがない。
クラスで仲間外れにされたのは、きっとヤンキーの言いなりにならなかったのかもしれない。
連中は幼稚だから、ちょっとしたことで、すぐ機嫌を悪くする。面倒な輩だ。
「ほら、佐藤さんも!佐藤さんは英語だったな、単語は判るみてぇだから基本の文法を覚えてこーぜ」
坂下は佐藤にも不意打ちをかまし、怯えた目で彼女が答える。
「あ、あのっ……た、単語も暗記は、必要、ですよね……?」
暗記、暗記。
坂下に言わせれば学校の勉強は暗記が主体のようで、俺は記憶力が他のやつと比べて格段に悪いから嫌になってくる。
「おう。ガッコのテストってやつはなぁ、生徒の記憶力を試すモンなんだ。求められてんのは解じゃねぇんだ、暗記なんだよ。ちなみに出そうな範囲は先生が授業でヒントをチラチラ出してっから、見逃さないようにな!」
「か……解……?解って、解答、ですよね……?」
「違う違う、解ってのは問題を解くまでの途中経過だよ。何故、この答えになるのかってのを試行錯誤するっつー。ホントは勉強すんなら解を理解しなきゃ意味ねーんだが、テストに絞って言うなら、そこは捨て去っていい。こうなったらこうなるってのを暗記するんだ。佐藤さんの場合は英文だったな、んなら文法における単語の順番を覚えていこうぜ」
坂下と佐藤の会話についていけず、俺は黙して二人を眺める。
悪いが、お前らが何を話し合っているのか、俺の頭では教科書の説明並に理解不能だ。
ややあって、佐藤がポンと手を打つ。
「……暗記、すればいいんですね」
「そうそう」と坂下も頷き、二人の異次元会話は終了した。
坂下が教科書とノートを取り出して机の上に広げる。
人のノートを汚いと罵る彼女のノートは如何ほどなのか俄然興味が湧き、俺は身を乗り出した。
教科書の写植並に読みやすい字で、且つ、教科書の丸写しではなく彼女なりに要点をまとめているのか判りやすく見出しをつけたり、ところどころに色とりどりの線が引かれた、実に見やすい紙面が目に入る。
なるほど。偏差値の違いとは、ノートの取り方にすら表れるのか。
普段がさつにしているのは、内面の几帳面さを隠す照れ隠しなのかもしれない。
などと考えていたら、坂下に睨みつけられた。
「なんなんだよ、顔に似合わねぇ字だって言いてーのか?」
似合わないといえば似合わない。だが、それは表向きの彼女だけを見た場合の印象だ。
「いや。繊細で美しい字だと思ったまでだ」
俺の答えに坂下は一瞬目を丸くしたかと思うと、すぐさま視線をノートに落として無言と化した。
なんだ?なにか、おかしなことを言ってしまったんだろうか。
三人とも無言で宿題に取り掛かり、リビングには再び静寂が訪れる。
教科書に載る方式を何度も目で読み返し、宿題の問題へ応用する。それが坂下の言う勉強法だ。
理屈は判るんだが……数字が違うだけで別物に見えてくるのは何故なんだ。
早くも一問目で詰まった俺の耳に、甲高い声が突き刺さる。
「あら〜、静かになったと思ったら、お勉強会を始めたの?勉強熱心なのね〜、おばさん感心しちゃう!うふふふっ。あっ、これ、お菓子だけど皆で食べてちょうだい」
慌てて顔をあげた俺の目に映ったのは例の母親、坂下の母親が俺の間近にピッタリ寄り添ってノートを覗き込む姿だった。
うわぁぁ、友達本人だけじゃなく、その親にまで見られてしまった!俺の汚い文字をッ。
だが、俺のノートを汚いと罵るでもなく「あらあら、さっそく一問目で詰まっちゃったのね。答えは、えっとぉ〜、こうじゃないかしらぁ?」などと呟いて、娘そっくりの綺麗な文字で俺のノートへ勝手に答えを書き込んでいく。
いやいや、待て待て、何やっているんだ、このおばさんは。
これは俺の宿題なんだから、俺が解かなきゃ駄目だろう。
押しのけようにも、またしてもグイグイされて、ソファから転げ落ちないようにするのが精一杯だ。
スラスラと苦もなく次々解答を書き込みながら、坂下の母親が俺に問う。
「ね、小野山くん。小野山くんの趣味は何かしら?空手をやっているってことは、やっぱり趣味も空手なの?スケボーには興味ない?恋香が今ドハマリしているんだけど、一緒に遊べる子がいないみたいなの。小野山くんがよかったら、今度一緒にスケボーやるのを見てあげてくれない?」
スケートボードには全く興味がない。
乗ったこともなければ、乗ろうと考えたことも。
だが坂下が寂しがっているというのなら、つきあってやるのも友情だ。
そう答えようとする側から、次の質問が飛んできた。
「ねね、それと、これはおばさんの好奇心でしかないんだけど。小野山くんは、どんな子がタイプなの?背の高い子?それとも低い子?胸はおっきなのと小さめとのでは、どっちがいいかしら〜」
いきなり話が飛んで、俺は軽く硬直する。
女子限定での好みを訊かれたって、答えようがない。
好みも何も、誰を見ても胸が高鳴ったり好きだと意識したことがないのだから。
人として、友人としてなら好意を持つことも稀にある。
ただし、あくまでも良い奴だなぁ、良い人だなぁといった好感だ。
性的な視線で他人を見たことがない。否、見られないといったほうが正しいか。
どうも俺には性欲が存在しないようで、男友達にエロ動画を見せられても、あぁ、動いているな程度の感想しか持てない。
裸の画像を見ても、裸なのは認識できるが、それ以上は感情が沸かない。
女でも男でもそうなのだから、好みの体格など、あろうはずもない。
皆は違う。裸の画像を見て「ムラムラする」だの「おっ勃つ」だのと騒いでいる。
そうした感情を持てない俺は、母親の胎内に何か大事なものを置き忘れてきた欠陥品なのだろう。
俺の答えなど端から期待していないのか、坂下の母親が振ってくる話題は、次から次へと変わってゆく。
数学に戻ったかと思えば世界情勢が割り込み、昼間のワイドショーへと切り替わり、学校へも飛んでいったかと思えば、近所の人の噂話になる。
しまいには「恋香もねぇ、小学生の頃は男の子と遊んだりしていたんだけど、いつの間にか女の子としか遊ばなくなっちゃったのよね。そればかりか、あの子が可愛い、この子も可愛いって、男の子みたいな目で彼女たちを見るようになっちゃって。はぁ〜、どこで育て方を間違えたのかしらねぇ」などと、子育てお悩み相談になってきた。
自称女なのに同性が好きなのか。しかも、外見は男っぽい。
皆が坂下をトランスジェンダーだのレズビアンだのと誤解するのも、判る気がする。
「お父さんが年中不在って、こういう時困るわぁ。相談しようにも出来ないんだもの。ね、小野山くん。おばさんの相談相手になってくれる?」
無茶言うな。
まだ高校生の俺に、子育てのどんな答えを期待しているんだ?
「え……いや……」
口ごもる俺に彼女は耳元で囁いた。
「ね、恋香をまともな女の子に戻せるよう、協力してちょうだい。まともっていうのは、異性に興味を持って女の子らしい趣味を持った子よ。あなたが言うなら、きっと恋香も素直に言うことを聞くような気がするのよね」
俺が言えば言うことを聞くって、まだ、そこまで仲良くなった覚えはないんだが。
ちらっと坂下の様子を伺うと、佐藤が大きな声で礼を言うのが見えた。
「終わりました!ありがとうございました!」
ずっと小声でボソボソ言うしかなかった彼女が、少し目を離した隙に、だいぶ坂下との距離を縮めたようだ。
宿題を手伝ってもらった恩は、態度を豹変させるほど大きかったんだろう。
「いやいや、なんのなんの。可愛い女の子に教えるんだったら、いくらでもカテキョしちゃうぜ」
ふんぞり返る坂下へ頭を下げると、佐藤は玄関へ向かう。
机に広げた教科書とノートを乱雑に鞄へ詰め込み、俺も慌てて立ち上がった。
「お、おじゃましました……!」
退散するなら、今を以て他にない。
「あぁん、もう帰っちゃうの?最後に、もう一つ!うちの恋香って、どう?あなたから見て可愛いかしら?それとも子供っぽいかしらねぇ」
そんなの、たとえ俺が恋愛感情を持っていたとしても答えられるか!
本人が同じ場にいるってのに。
「やめろ母ちゃん!二人とも、もう帰るんだから!」
坂下が母親を押し戻し、その間に俺と佐藤は外へ飛び出した。
「また遊びに来てちょうだいね!待っているわー!」といった声を背中に聞きながら。
やれやれ、大変な目にあった。
だが、悪くはない。
少なくとも俺にとっては勉強のやり方が判った気分になれる、実に有意義な一日であった。
ちらりと見下ろすと、坂下の下がり眉が見える。
母親が騒がしくしたせいで、俺達が気を悪くしたんじゃないかと心配しているんだろう。
安心させてやろうと、俺は言ってやった。
「勉強会、次もやろう」
案の定、坂下は「へっ!?」と大きな声で叫び、驚愕の眼差しで俺を見上げてくる。
佐藤も追い風とばかりに「坂下さんのご都合が良ければ、また、よろしくお願いします」と頭を下げた。
おかげで坂下は満面の笑みになり、勢いよく頷く。
「おう!お前らの都合に併せて、やろうぜ勉強会!」
次も坂下の家に集合だ。
そして次までには、坂下家の母親対策を練ろうと俺は密かに考えた。