Chapter1-7 奈落の滝
突き飛ばされた衝撃で硬直の解けたエリーは、慌てて立ち上がるとフェイへ駆け寄り抱え起こす。
「フェイッ、しっかりしな!馬鹿、どうして、あたしなんか助けたんだい」
「エ、エリー……無事でよかったぁ」
「あんたが無事じゃないよ!くそぉ、血が止まらないじゃないかッ」
どれだけ両手で強く傷口を押さえても、駄目だ、流れ出る血を止められない。
怪物の一撃は頭から爪先まで真一文字に少年の身体を切り開いており、止血程度で、どうにかなるような傷口ではなかった。
「ッの野郎……!よくもフェイを」と殺気立つヒョウに、怪物が動じた気配はない。
だからといって襲いかかってくるでもなく、低く構えて唸りを上げている。
「ほーいちち……ん?どうしたんじゃ、フェイ!一体誰にやられた!?」
ワンテンポ遅れて驚くエデンには、エリーが突っかかった。
「見りゃ判んだろ、このボケ樽!あのバケモンにフェイが、あたしを助けようとして代わりに!!」
血の海に沈むフェイを見た後に熱り立つエリーへ視線を移して、エデンがポツリと呟く。
「……愛の力か。エリー。扉の主は、お前さんを知っているのかもしれんぞ」
「この非常時に何ノンキなこと抜かしてんだい!?その腹ブチ破いて、あいつに食わせてやろうかッ」
「まぁ聞け……お前が本当に炎の一族ならば、知っていよう。その秘められた能力にもな」
怪物は威嚇するばかりで襲いかかってこないが、ちょうど扉の真正面に陣取っており、奴をどかさないことには向こう側へ行けないし、奴がいる限り、出血多量のフェイを逃がすのも出来ずにいた。
逃げても無駄だ。奴は追いかけてくるだろうし、いずれは行き止まりに追い込まれて殺される。
「知るか!あたしは首都パームで産まれた、ただの孤児だよ!炎の一族の伝説なんて知るもんかッ」
怒鳴り散らすエリーの肩を掴んで引き寄せたのは、ヒョウだ。
「何なんだ?この際どんな話だっていい、倒せる手段があるなら話してくれ」
「あんたまで、こんなビヤ樽の話を聞こうってのかい!?炎の一族の伝説なんて今は関係な――」
「フェイを助けたくねぇのか?」
こうして話している間にも、フェイは刻一刻と弱っていく。
今も吐く息が頼りない。瞳からは光が失われ、身動ぎ一つする気力も尽きたように思われた。
「倒す手段が見つからない以上、あいつからは逃れられねぇ。このまんまじゃフェイが出血多量で死んじまう。エデン、お前は、あのバケモノに勝つ方法を思い当たった。だから、そんな話を始めたんだろ……違うか?」
ヒョウに問われ、エデンが迷わず頷く。
「違わんよ、その通りじゃ。炎の一族は、秘めた力として炎の力を体内に宿しておる。じゃが、それは普段から使えるものではなく、心がある域に達したときに初めて使えるようになるのじゃ」
「ある域……?」と首を傾げる相手に、もう一度力強く頷いた。
「愛じゃよ。愛を知った時に、初めて炎の力を授かるのじゃ。じゃが一つ問題があってのぅ……炎の一族に愛された相手が一族の者ではない場合、その炎によって焼き焦がされてしまうのじゃ」
炎の一族の愛とは、互いの噴き出した炎に全身を包まれあうものであった。
身も心も焼かれるほどの強い炎であればあるほど、愛の結束は強くなる。
だから、一族以外を愛した場合は悲惨な結末が待っていた。
「つまり……死ぬってことか」と、ヒョウ。
エデンも「うむ。じゃからの、この場合……儂か、お前さんが死ぬことになるかのぅ」と結論付けた。
目線を怪物に併せた姿勢で、なおもヒョウは尋ねる。
「その炎の力ってやつで、必ず奴は倒せると思うか?」
「炎の力とて愛の力じゃから、無駄ではなかろうよ」
「なるほど……他に方法もないしな、それしかないか」
二人の会話を遮って、エリーが吼える。
「勝手に話を進めるんじゃないよッ。あたしは御免だね、あんたとエデン、どっちも好きになんてなれないよ!だって……あたしのせいで、どっちかが死ぬなんて耐えられないじゃないか!」
「じゃが、このままでは儂ら全員揃っておだぶつじゃ。フェイを生かすためにも、先に進むためにも、決断しておくれ、エリー」
エデンが促す傍で、ヒョウも言い添えた。
「一人の犠牲で皆が助かるなら、安いもんだろ」
どちらの目も真剣だ。
いや、冗談で言っているのではないと、最初から判りきっていた。
フェイの怪我だって、気になっていないわけじゃない。
放っておいたら出血死するなんてのは、誰かに言われずとも判っている。
それでもエリーが決断できずにいるのは、理性や打算で仲間を切り捨てられるほどには冷血になれないせいだ。
ふと、月明かりの島に残してきた強盗仲間が脳裏に浮かぶ。
あいつらだって本当は島へ残していくんじゃなく、どこか安全な場所で暮らしていけるよう手配してやりたかった。
ただ、エリーには、そうしてやれる時間がなかったけれど。
「そ、そんなこと言ったって……いきなり好きになれって言われたって、好きになれるもんでもないし」
言い訳しながら、ちらっとヒョウを見た瞬間、エリーの頬がカァッと熱くなる。
そんな動揺をエデンに気取られた。
「おや?お前さんはヒョウが好きではなかったのかね」
「っっ!!そ、そんなことない!勝手に決めつけるんじゃないよ、このデボビヤ樽!!あああ、あたしはヒョウなんて、ヒョウなんて別に好きじゃ」
言えば言うほど頬だけではなく、体全体がポッポと熱く感じられて、エリーの額には汗が滲んだ。
「図星か」
ヒョウにはクスッと笑われて、エリーは「し、しるもんかっ」と今や耳まで赤くなって、そっぽを向く。
「しかし、なら何で俺は死なない?エリーも、どっか変わったようには見えねーし」
真顔で問う相手にエデンも、ニタッと含み笑いを浮かべた。
「ぬふ。炎の一族の愛とは心のみならず、肉体をも相手に許すのを意味するんじゃ」
「んなぁッ!?じゃ、じゃーもしかして、ココでしろってことなの!?」
炎が噴きだすんじゃないかってほど羞恥に染まったエリーが叫ぶのにあわせ、エデンが「うむ」といやらしい笑みを浮かべて頷く。
「じょっ、ジョーダンじゃないよ!そ、そんな恥ずかしいことできるわけないじゃないか!」
エリーの拒否は尤もだが、最優先すべきはフェイの命だ。
少年が瞼を閉じているのに気付いたヒョウは、慌てて彼を揺さぶった。
「フェイ?フェイッ、寝るんじゃねぇ、意識を保つんだ!」
どれだけ揺さぶっても反応がない。
あまりにも血が流れすぎたのか。
フェイに衰弱死を迎えさせるぐらいなら、やはり誰か一人――いや、自分が犠牲になるしかない。
エリーに飛びかかって彼女を押し倒したヒョウは無理矢理唇を奪おうとしたのだが、エリー本人の激しい抵抗にあって仰け反った。
ガリッと良い音がして、ヒョウの頬からは鮮血が飛び散る。
一瞬でも怯んだ隙にエリー渾身の蹴りが腹に決まり、受け身も満足に取れないまま地面を転がった。
「ぬぅ、愛ではなく殺意の力になってしもた。仕方ない、では儂が代わりに」
エデンが躙り寄ってくるのへも、エリーは怒気を吐く。
「どっちも嫌だっつってんだろ!あたしはねぇ、あたしが好きな奴は、あたしのことも好きじゃなきゃ許さないッ」
「なら心配無用じゃ。儂は、お前さんの事を愛しておるよ」
「嘘つけッ!あたしの体だけが目当てのくせに!!」
「そんなこたぁないぞい。お前さんが望むのなら、心も体も全て愛してやるつもりじゃ」
「愛してやるなんて恩着せがましいッ。恋愛って、そういうモンじゃないだろ!?」
「ありゃりゃ、言い方がまずかったかの。では言い直そう……好きじゃよエリー、愛しておる」
「だから!うさんくさいっての、あんたみたいなエロ樽に言われても」
「愛しておるからこそ、肉体を求め合う……愛とは、そうしたものではないのかね」
「そ、そうかもしれないけど、でも、あたしはアンタが好きじゃない!」
「そう言わずに儂を愛しておくれ、な」
「やだ!!」
どれだけ言葉を重ねられたって、蛸みたいに唇を尖らせてズイズイ迫られたって、エデンとは第一印象が最悪だった。
とても愛したいと思える相手じゃないのだけは確かだ。
「いや、まずいだろ。エデン、フェイの旅に道案内は必要だ」
エデンによる愛の強要を遮ったのはヒョウであった。
今になって血が出ていると心配するエリーを遮って、問いかける。
「エリー、この中で要らない奴は誰だと思う?」
「エ?」
「お前は、あのバケモンを倒すための武器だ。だから当然必要とされる奴だよな。そしてフェイは、この旅の主役なんだから当然必要だ。エデンもフェイの道しるべとして生きていて貰う必要がある」
結論を言う前に、エデンが割り込んだ。
「自分だけが必要とされていない、とでも言うつもりかの?」
「そうだ。この中じゃ俺だけが異端だ。なら、要らない奴が犠牲になりゃーいいだけのこった」
「ここで燃え尽きるのが、フェイの役に立つ、とでも?本気で言っとるんか」
エデンの瞳に同情と憐憫を見つけたヒョウは視線を逸らす。
長旅に仲間意識は大切だが、発揮させるのは今じゃない。
「どのみち時間がない。フェイを助けるために俺を切り捨てろ、それが一番合理的だ」とされても、エリーには、やはり頷けない。
「ごめん……フェイが心配じゃないわけじゃないんだ。でも、あたし……あたし、やっぱり嫌だよ。だって、悲しいじゃないか!せっかく好きになれた人が、自分の力のせいで消えちゃうなんて!!」
孤児であるが故に、だからこそ人と人との繋がりを大事にする。
エリーに決断を迫るのは無理だ。そうするには、彼女の性根は優しすぎた。
泣きじゃくる彼女からも目を逸らし、ヒョウは怪物と向かい合う。
先程よりも間合いが詰まっている。こちらが言い争っている間に、距離を詰めてきたか。
皆を庇う位置に立つと、振り向かずにヒョウは命じた。
どこから出したのか例のナイフを握りしめて。
「エデン、エリーとフェイを抱えて逃げろ。俺が食われている間に遠くまで行けるだろ」
「お待ちよ、ヒョウ!そんなことして、あんたがいなくなったってフェイが気づいたら、フェイが悲しむよッ!?」
「フェイが?」と顔だけ振り向いたヒョウに、エデンも重ねて説得に入る。
「そうじゃの。フェイは、お前さんを必要としてるからのぉ」
「……いなくなれば、それだけのモノだったとして諦めもつくだろ。人と人の繋がりなんざ、そんなもんじゃねぇのか」
違う、そうじゃない。
彼の言葉を否定したのは、エデンでもエリーでもなく。
「ひょ、ヒョウ……簡単に犠牲になる、なんて言っちゃやだよ」
ふらふらと立ち上がるフェイを見て、全員が仰天する。
出血多量で息をするのもやっとだった少年の何処に、立ち上がる力が残っていたというのか。
「フェイ、無理すんなッ。いいから、お前は寝てろ。無駄に体力を使うんじゃない」
「ひょ……ヒョウが死なないって約束してくんなきゃ、寝ててなんか、やらないやいぃぃ。やく、そく、しただろ……?俺と一緒に、旅するってさぁ……」
支えようとするエリーの手を振り切って、一歩、一歩とフェイはヒョウへ近づいていく。
怪物の前に立ち塞がったヒョウは、その場を動かず手の内のナイフを増やす。
「あぁ。だからこそ、お前を生き延びさせる為に犠牲になろうってんだ。大丈夫だ、死は別れじゃない。お前と一緒に旅は続ける、たとえ肉体が滅んだとしても大した問題じゃない。だろ?」
「そんな犠牲……意味ないよっ。ヒョウとは体ごと一緒に旅したいんだぁ!」と叫んで、フェイが足を止める。
瞳には光が宿り、頬を流れるのは涙だ。
「おれ、俺、お前と、まだ一緒に喜んだり遊んだりしてないのに、そんなのやだよぅ……」
そこまで言うと、フェイは地面に崩れ落ちた。叫んで体力を随分浪費したのだろう。
たまらず振り返って「フェイ!」と抱きかかえたヒョウの頭上に、エデンの言葉が降り注ぐ。
「人とは、魂だけの存在ではない。肉体と魂、両方が揃って、初めて人と呼べる存在になりうるのじゃ。フェイは、それをお前さんに伝えたかったようじゃの」
フェイが意識を失うと同時に、扉が開く。
扉の向こう側からは、強い風が吹いてきている。
その風に吹き飛ばされるようにして、怪物も崩れ去った。
「なんでだ?なんで、扉が開きやがった。誰も愛の力なんか発動しちゃいないだろうに」
フェイを抱きかかえて呆然とするヒョウには、エデンが応える。
「いや……したよ。他ならぬその人、フェイがな」
さっさと歩き出した彼の後を追いかけながら、ヒョウが首を傾げた。
「フェイが誰に愛を発動したってんだ。あのビヤ樽、何言ってんだ?」
エリーは何も言わず、だが抱きかかえられたフェイと不思議がるヒョウの双方を見て、ふふっと微笑む。
ヒョウの背中を押す形で、最後に扉を潜り抜けた。
扉の向こう側は、入ってすぐ正面に滝が流れていた。
ちょっとした広さの花畑となっており、一面に色とりどりの花が敷き詰められている。
また、断崖の絶壁では見あたらなかった小動物の姿も見られ、穏やかな景色が広がっていた。
「滝の底に、また滝が流れているなんてねぇ」
ぐるっと見渡してエリーが呟くのへは、エデンが物知り顔で相槌を打つ。
「……フーム。もしかすると、ここが奈落の滝なのかもしれんのぅ」
「で、エロ樽。ここについたはいいけど、これからどうすれば?」
エリーに問われたエデンは、しれっと嘯く。
「さあのぅ?儂はただ、フェイをここに連れて行けばよいと、ミディアに言われただけじゃから」
「そんな、いい加減な!このままじゃフェイが出血多量で死んじまうよ!」
泡食う彼女を一瞥し、ヒョウは腕の中のフェイに視線を落とす。
「応急処置しといたが、出血しすぎた……すみやかに輸血が必要なんだが、道具も持ち合わせちゃいねぇ」
「そんな!助けたと思ったのに、結局駄目だなんて……!」
絶望にくれる三人の耳に、静かな声が流れ込む。
「そのものを、滝へ。滝へ放り込みなさい」
「えっ?誰!?」と見渡しても、そばには誰もいない。
「滝の中から聞こえとるようじゃのう……」と水面を覗き込むエデンにつられて、エリーも覗き込んだ。
「早くしなさい。手遅れにならないうちに」
本当だ。
声は水の中から聴こえる。
しかし、瀕死のフェイを水中へ放り込めとは随分手荒なことを言う。
「瀕死の仲間を放り込めだって!?冗談じゃない、そんなことしたら死ぬのが早まっちまうじゃないか!」
「……奈落の滝は浄化の滝。死にかけた者をも再生する力を持っています。さぁ、早く」
声は頑として主張を曲げない。
ここで言い争うのは時間の無駄だ。
「入れればいいんだな?」と呟いたヒョウが、フェイを滝に投げ入れる。
「ヒョウゥゥッ!」
非難の声が上がる中、水の中の声も穏やかに問いた。
「……随分あっさり納得するのですね。私を信用したのですか?」
「まさか。だが、あいつを、このまま死なせるつもりもない。どうせ死ぬなら可能性にかけてみたまでだ」と、ヒョウ。
さらに深く、声が追及する。
「どうしてこの者を死なせたくないのですか?仲間だから?」
ちらと水面に目をやり、すぐにヒョウの視線は花畑へと逃れた。
「仲間とか友とかってのは、俺にゃ理解できねぇ。だが、目の前で人に死なれるのは後味が悪い。それじゃ答えになんねーか?」
沈黙。
ややあって、声が応える。
「……あなたは己の内にある感情を、うまく把握できていないのですね。いいでしょう、正直な方。フェイは助けます、私の面目にかけて。さて、彼が復活するまでの間、私からも質問があります」
質問が来る前に、エリーは遮った。
「質問は、いいけどッ。その前に姿ぐらい見せたら、どうなのさ!」
「姿がないと不安ですか?炎の民エリー」
「当たり前だろ!?」
「どうして当たり前なのですか?」
「どうしてって……姿が見えないと、どこに話しかけていいか判らないし、言った言葉がどう受け取られたのか、相手の顔を見なくちゃ対話のしようがないからに決まってんだろ!?」
「なるほど……相手の顔色を伺って、言葉尻を併せようというおつもりですか」
意地の悪い解釈に、エリーの頭にはカッと血がのぼる。
「違うよ!できれば傷つけるような言葉を言わないようにしたいから、相手の顔を見て話したいんじゃないか!話し相手が傷つくのは、こっちだってつらいんだからね!」
「……判りました、お優しい方。では、これでどうでしょう」
カーテンを引くように二つに分かれた滝の中から、ゆっくりと歩いて出てきたのは、漆黒のローブに身を包んだ小柄な女性であった。
口元には僅かな笑みを頌えている。
「ごきげんよう、皆様。私の名はヴァリ。奈落の滝を見守る、闇の巫女です」
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