9.臨海学校

中間テストも終わり、臨海学校が始まった。
テストの結果は、予想していたよりも良かったとだけ言っておく。
勉強会へ誘ってくれた坂下、それから数学を教えてくれた桜丘には感謝だ。
その勉強会で坂下は手に怪我を負ったんだが、出発前の集合には顔を見せていて、彼女が休まなかったことに安堵した。
右掌には包帯が巻かれている。
俺が嵌めろと勧めた防水カバーはつけていない。大袈裟すぎると断られてしまった。
まぁいい。今は坂下よりも行事に目を向けよう。
臨海学校は一週間を通して、海近くの民宿に宿泊する。
名目上は海の危険を知ることにあるんだが、実際には海で遊ぶだけの行事だと部活の先輩が言っていた。
先生方もシュノーケルや浮き輪を持ち込んでいて、海の危険を生徒に教える気は更々ないようだ。
民宿は設備が豪華だった。
ゲームコーナーや大宴会場は言うに及ばずカラオケバーまであり、民宿と言うよりはホテルじゃないか?
それでいて外観は和風で、ちょっとした庭園もある。
最大のウリは、海に接した露天温泉だという。
この様子だと参加費を相当ふんだくられたと思うんだが、俺の親は嫌な顔ひとつせず送り出してくれた。
臨海学校なる行事に参加するのは初めてだ。幸い、手元には学校配布の栞がある。
大半の時間が海での自由行動、ただし朝と昼と夜の飯時には座学をやるそうだ。
最終日の夜は浜辺で花火大会をやるのだと、栞には書かれていた。
花火大会の日には、民宿提供の屋台も出る。
様々な事情で海水浴を楽しめなかった奴らにも救いがあろう。


到着一日目、さっそく水着に着替えて浜辺へ出ると、後藤が駆け寄ってくる。
「小野山ァァ、背中焼こうぜ背中!」とか何とか騒ぎながら、片手にどっぷり油をすくい取って。
構ってられん。海といったら、まずは泳ぐ。その為の水着だ。
海水浴に来た記憶は遥か昔、小学一年以来だ。あの頃は父も無職ではなく、働いていたように思う。
まだ泳げない俺の手を引いて、母が泳ぎを教えてくれた。
波打ち際で、父と一緒に貝殻を拾ったりもした。
良い思い出だ。
父が職を失った後は、とても海へ行こうなどと言い出せなくなった。
だから――この行事は、楽しみにしていたんだ。
海で泳げる。消毒臭いプールではなく。
後藤を無視して海に入る。
日差しに晒された肌に、冷たい水が心地よく染み通ってゆく。
乾いた砂とは異なる水中の足元も懐かしい感触だ。
ざぶっと頭まで沈んでみた。水は澄んでいて、さすが県外の空いている海水浴場まで来た甲斐がある。
ざぶざぶ水をかき分けて、もっと深いところへ行こうとした直後、背後から声をかけられた。
「ねぇ!ちょっといいかな、えっと、小野山くん?」
聞き覚えのない声、誰だ?
振り向くと、横幅の広い女子が俺を真っ向から見据えて笑顔を浮かべている。
「あ、私、大弓って言います!でね、うちのクラス、あっ、私のクラスって一組なんだけど、うん、一組で泳げない子が何人かいてさ、まぁ私も泳げないんだけど、ホントは坂下さんに教えてもらう予定だったんだけど、ほら、彼女、手ェ怪我しちゃってるでしょ?あ、坂下さんは知ってるよね?うちに転校してきて、空手部に入ったから小野山くんも知ってると思うんだけど。その坂下さんがね、教えてもらうなら小野山くん、君がいいって言ってて!あ、教えてってのは、うん、もちろん水泳!いい?」
支離滅裂な話し方をする子だ。聞いているだけで疲れてくる。
要点をまとめると、坂下がクラスの女子に水泳を教える予定だったのが当日キャンセルされた。
代わりに水泳を教える役として坂下が俺を紹介した――そういうことか?
坂下の前で泳いだ覚えなんかないのに、何故、彼女は俺を指南役に選んだんだ。
体育の時間に俺が泳いでいるのを見かけたとしても、だ。泳ぎを教えられる奴ぐらいいるだろ、一組にも。
そこまで考えた俺の脳裏に一組の主だった顔ぶれが浮かび上がり、二度、三度、首を振る。
判ったぞ坂下、俺にバトンを渡した理由が。
お前のクラスは男子も女子も、軽薄で不真面目なヤンキーだらけなんだったな。
俺のクラスにもヤンキーはいるが、一組ほどじゃない。どうもクラス分けに隔たりを感じる。
「判った」と頷くと、大弓は「やったー!」と全身で喜びを示し、「オッケーだって、小野山くん!皆集まってー!」と友人達を呼び寄せる。
集まってきたのは一組に少数なれど存在する、ヤンキーではない女子ばかりだ。
「お礼はスイカ割りで割ったスイカで」と言いかける大弓を遮り、俺は「礼は不要だ。始めよう」と断った。
「あ……あのっ、みっ……水っ!水、が、怖くて……」
囁くような小声で叫んだのはスクール水着の女子で、やたら細い。
手足だけじゃない、体全体がだ。まともに運動できるのかどうかも怪しい。
「み、水に、入れはするんだけど、目が、開かなくて、開けられ、なくて……そのっ……」
「祐実ちゃん、大丈夫だよ!」
興奮する彼女を大弓が宥めにまわり、俺にも話題を振ってくる。
「水に慣れるには、まず、水に顔をつけるんだよね、そうだよね?」
「あぁ」と頷く俺へ「そうだ!名前が判らないと教えづらいよね!私は大弓、あっ、さっき言ったっけ?そんで、この子は小川 祐実ちゃん!そっちの赤い水着の子は、森山 ゆかりちゃん。そんで、水玉模様の子は影谷 礼美かげや れみちゃん!それからー、青と白のストライプな水着、へへっ、青と白の組み合わせって綺麗だよね。うん、その子は佐藤 芽依ちゃんでー、その隣にいるのが芦田 摩耶ちゃん!どう、覚えた?覚えられる?」と次々友人を紹介する大弓を見て、何故彼女が俺に声をかける代表になったのかも、よく判った。
面倒見が良いんだな。おそらくは皆に泳ぎを教えてくれと坂下へ頼んだのも、大弓なんだろう。
さぁ始めようというタイミングで、後藤の「えっ?何?ハーレム?ハーレム水泳教室やんの、小野山が?ヒューヒュー♪」といった無粋な一言が放たれてきて、小川がカァッと頬を赤らめる。
俺に声をかけるのも、やっとだった繊細な子を、こんなふうに、からかいの対象にしていいわけがない。
だが小言を垂れる前に、大弓が後藤の前へ飛び出した。
「ねぇ、君も小野山くんに水泳習おうよ。あっ、泳げるんだったら手伝って!私達、いっぱいいるでしょ?だからさ、小野山くんを助けると思って!でも、優しく教えてくれないと泣いちゃうよ?私達が一斉に泣いたら、君、いじめっ子に見えちゃうかもね!」
そう言って豪快に口を開けて笑う。何事かと周りの連中まで振り返り、後藤は、すっかり注目の的だ。
「お、おう、教えてやんよ?けど、そのかわり、お礼のスイカ、忘れんなよ」
後藤は視線を逸らしながら答え、どの辺りから聞いていたんだか、最初から眺めていたに違いない。
「よし、なら後藤、お前は大弓と芦田と森山を頼む。丁重に扱ってくれ」
後藤はウェッとなりかけるも、じっと見つめただけで「い、いいよ。やってやんよ、他ならぬお前の頼みとあっちゃあな!」と折れた。
大弓も、わざとらしいほどの笑顔を浮かべて「後藤くん、よろしくね!」と手を握りしめて「やめろっての!」と嫌がられていた。
これでいい。
追い払うことしか考えていなかった俺と違って、仲間に引き入れる案を咄嗟に思いつける彼女なら、後藤の悪態にも対応できるだろう。
大弓と同じグループに入れた子たちにも安堵が浮かぶ。
後藤が先生役でも大弓が一緒なら安心だ、そういった感情が読み取れる。
一方で小川の表情は固くなり、佐藤と影谷は畏まって俺に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
同学年が相手だというのに馬鹿丁寧だ。
「二人は、どこまで出来るんだ?小川と同じで水に入るまでは出来るのか」
俺の問いに「あ……最高記録は八十センチでした。バタ足で」と、ぎこちない笑みで影谷が答える。
その隣では佐藤も「バタ足しても沈んじゃうんです、よね……何ででしょう……?」と呟いた。
水が怖い小川、そこそこ泳げる影谷、推進力が備わっていない佐藤、か。
泳げないなら泳げないで砂浜で遊ぶ選択肢もあっただろうに、あえて泳ぎを学ぶ選択をする辺りが真面目だ。
「小川は水に潜って目を開けられるよう練習してくれ。影谷と佐藤は推進力を身につけよう」
「すい……しん、りょく?」と、二人とも首を傾げている。
仕方ない。学校の授業では教えない言葉だ。
俺も母に教わっていなかったら、泳げなくなっていたかもしれない。
「バタ足をしても体が沈むのは、水に対して体が水平になっていないからだ。まずは体をまっすぐに保つ練習をしよう」
「なるほど……!さすが体育会系は、体のメカニズムも把握しているんですね」と感心する影谷と比べると、佐藤の反応は鈍い。
心が何処かへ飛んでいったかのような、ぼーっとした顔で突っ立っている。
「影谷は泳げるんだったな。なら、水平を保つと共にバタ足を長く続ける練習も並行してやってくれ」
「泳げるったって八十センチですけど」
「何センチだろうと、泳げることに変わりはない」
影谷は何気ない俺の一言に、えらく勇気づけられたようで、ぱぁっと晴れやかな顔になった。
「判りました!あ、浮き輪は使っていいですか?」
表情の硬さは取れても敬語は絶対崩さない彼女に、許可を出す。
「あぁ。だが、浮き輪にしがみつくんじゃないぞ。あくまでも補助として掴まるんだ」
「はい!」との小気味よい返事を聞きながら、俺は放心している佐藤の肩に手を置いた。
「佐藤、俺の話を聞いているか?」
次第に視点が定まってきたかと思うと、佐藤はヒャッと妙な息を吐いて、こちらを凝視する。
もしや、暑さで意識が遠のきかけていたんだろうか。倒れる前に声をかけておいて良かった。
「佐藤は水の中で姿勢を保つ練習をしよう。俺が補助する」
手を差し出したんだが、無反応だ。無言で俺の顔を見ている。
そういや佐藤とは、以前の勉強会でも話をした覚えがない。
坂下とばかり話していた点から考えて、異性は苦手なんだろうか。
……困ったな。手を握ってもらえないんじゃ補助も出来ない。
小川同様、水に慣れる程度で終わらせておくべきか?
そう考えていたら、佐藤が反応した。
「は、はい!はい!泳ぎます!いえ、頑張ります!」
何やら大声で叫び、ぎゅぅっと痛いぐらいに俺の手を握りしめてくるもんだから、驚いた。
余計な力が入ってしまうのは、そうしないと炎天下で気力が抜けてしまうのかもしれない。
これも俺の説明が長かったせいだ、悪いことをした。
早く水に入ろう。冷たい水で頭がすっきりすれば、佐藤の意識もはっきりしてくるはずだ。
「いこう」
佐藤を引っ張って、海に入る。
俺の背に併せると佐藤が溺れてしまうから、できるだけ浅瀬がいい。
こころなしか視線を体中に感じながら、俺は佐藤に泳ぎを教えてやった。

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